【web連載小説│毎週日曜よる9時配信】作・松井玲奈「ヨジョン」-第5話-

『CLASSY.』『VERY』『STORY』、それぞれの読者像を主人公にした、人気作家によるwebアンソロジー企画。テーマはエンタメやファッション、美容、そして文学など、私たちの心をつかんで離さない「韓国」。そこにまつわる、“今を生きる女性”を描きます。『CLASSY.』の第一回目は、松井玲奈さんの『ヨジョン』。毎週日曜日の夜9時に公開します。

 「ドレスはこちらにしましょう。アクセサリーはどうしますか?」
 ミズキははっと思い出したように顔を受付のある方へと向けた。どうかしたかと問いかけると、彼女はスーツケースの中から取り出したいものがあると言う。
 受付からスーツケースを持ってきて彼女に渡すと、中から薄いブルーのベロアのアクセサリーケースが出てきた。クッションの梱包材を外し、ケースの中から丁寧な手つきで無調色の美しい真珠のネックレスを取り出した。
「母との思い出の品なんです」
 彼女はこれをつけることはできるかとジウンに尋ねた。
 もちろんですと答えたジウンは、ネックレスを丁寧に受け取った。少し見ただけでもとても高価なものだとわかる。ジウンの指先が真珠に触れた時、ひやりとした感触が伝わった。それはさっきまで冷えていた自分の手よりも静かな温度で、ジウンの知ることのない時間が真珠の一粒一粒に大切に閉じ込められているようにも感じられる。
「大切なものですね」
 ミズキは一度だけ頷いた。
「子供の頃に母が、大人になったら特別な時に使いなさいと譲ってくれました」
「だからつけるなら今日だと思うんです」と彼女は愛おしそうにネックレスを見つめた。
 そっと首元にネックレスをかけると、彼女の柔らかい質感の肌に無調色の真珠がよく馴染んでいた。瞬間、ミズキは何かを飲み込むように深く息を吸い込んだ。堪えきれずに目から一粒の涙が落ち、ジウンは慌ててハンカチを彼女に手渡した。ミズキは小さく「すみません」と何度も繰り返してからハンカチを受け取ったが、涙は溢れて止まらなかった。
「一度休憩しましょうか」
 ドレス姿の彼女を試着室の中に置かれた小さな椅子に腰掛けさせ、ジウンはミズキの足元に跪いた。彼女の膝下に手を置いてゆったりとしたリズムで膝を叩き、気持ちが落ち着くのをじっと待ってやる。
「泣き出してしまってすみません」
「いえ。大丈夫ですよ。気持ちは少し落ち着きましたか?」
「はい」
「お母様のことで……何か辛いことがありましたか?」
 ジウンが問いかけると、ミズキはまたわっと泣き出した。今度は立ち上がり彼女の背中を撫でてやる。
「そんな気がしたので聞いてしまいました。もし傷つけてしまったなら申し訳ないです」
「いえ。……母のことを考えたら涙が止まらなくて」
「お母様に何かあったんですか?」
 そう問いかけながらも、ジウンはミズキの背中をずっと撫でてやった。
「母はずっと私の花嫁姿を見ることを夢見てました。でも、それをすぐに叶えてあげることが今の私にはできないから……」
「それでも、このドレスを着たお写真を見たらミズキ様の気持ちは伝わると思いますよ」
「好きなことを選んできて、これからも自分のやりたいことを続けていくんだと思っていたんです。でも、母が事故に遭ってから置いてきたものばかり思い出してしまって」
「そうですか」
「だからここで写真を撮って母の夢を違った形でも叶えてあげることができたら、少しでも喜んでくれるんじゃないかと思ったんです」
「絶対に写真を見せてあげましょう」
「母は事故のせいで耳が聞こえなくなってしまいました。写真を見せることができても、自分の声で母に気持ちを伝えることがもうできないんだと思うと、後悔の気持ちばかりが浮かんできます」
「でも」
 ジウンは声に出して一瞬言い淀んだ。でも、今頭に浮かんだ言葉を彼女に伝えるべきだと心に決めて声に出した。
「きっと喜んでくださいます」
 ジウンはミズキの背中を撫でながら言った。
「そのためにここに来たんですから」
「……そうだといいな」
 涙で濡れた頬や、赤らんだ鼻先は彼女をより人間らしく見せているように感じられた。
「ミズキ様は『永遠の約束』のどこに惹かれたんですか?」
 彼女は潤んだ瞳のままはにかんだ表情を見せる。
「私を韓国に導いてくれたきっかけの作品なんです」
「語学学習のために見ていたんですか?」
「私、学生時代に周りにうまく馴染めずに引きこもっていた時期があったんです。何もしたくない日々が続いていたんですが、ある時日本で放送していた『永遠の約束』にとても感動して。いつか私もこんな素敵なドレスを着て結婚式ができたらいいなと憧れました」
「あの結婚式の場面は本当に素敵でしたね」
「はい。それから作品に出てくる場所に行ってみたいと思うようになって、両親に韓国に留学させてほしいとお願いしたんです。高校もろくに行けてなかったから、母は強く反対をしたんですけど、父がやっと自分のやりたいことを見つけたんだから行かせてやれって背中を押してくれたんです」
「いいお父様ですね」
「はい。母はずっと反対していたんですけど、高校に行きながら勉強をしました。その時は韓国に来たら全部変わると思っていたんです。でも、実際に来てみたら私自身はそんなに変わらなかった。言葉もうまく通じないし、恥ずかしいことばかりで。でも、恥をかいても案外生きていけるんだって、それだけはわかりました」
 ジウンは彼女の言葉に丁寧に相槌を打っていた。
「ごめんなさい。私色々と話しすぎてしまいましたね」
「いえ、素敵なお話を聞かせてくださって嬉しいです」
「……ジウンさん、このドレスどう思いますか?」
「ミズキ様の決心がよく表れた、ぴったりの一着だと思います。お母様のためにも、ミズキ様のためにも、素敵な一枚を残しましょう」

 ドレスを身につけたミズキをヘアメイクルームに送り出したあと、ジウンは自分のこれまでの人生を振り返った。
 ジウンの母もとても厳格な人だった。
「お母さんは頭が良くなくて苦労したの。ジウンには同じ思いをしてほしくない」
 その言葉は愛情の形をしていたが、ジウンにはいつも重く感じられた。
「私は結婚式場でドレスを着せる仕事がしたい」
 そう打ち明けた時、母は泣きながら怒った。家中のものをジウンに向かって投げつけ、
「あなたのために、どれだけしてきたと思ってるの」
 その言葉の方が、投げつけられたものよりずっと痛かった。
 結局、ジウンは結婚式場に就職することは叶わず、ウエディングフォトスタジオで働くことになった。母の関心は弟へと移り、家族とは疎遠になってしまっている。
 
 メイクルームからおずおずと出てきたミズキは、まだ誰も足を踏み入れていない早朝の雪景色のように美しかった。雪の絨毯の上に柔らかな朝日が差し込んでいる、そんな情景がジウンの頭に浮かんだ。
「とても素敵です」
 自然と口から出たその言葉を、ミズキははにかみながら受け止めた。ジウンがドレスやヘアメイクに問題がないかをチェックしている間、ミズキは鏡に映る自分をじっと見つめていた。
 ジウンはミズキの後ろに回り、ドレスの裾を持ち上げてやる。ドレスに覆われた彼女の背中はしゃんと伸び、一歩一歩確かめるように前へと歩みを進めていった。
 撮影スタジオには白い薔薇のアーチが作られ、床にもたくさんの白い薔薇が植えられている。薔薇の花畑にゆっくりと入っていくミズキは儚げで、あのドラマの女優が恋人に向かって歩いていく姿に似ているように感じられる。
 カメラマンは緊張を解すためにいつも場違いな明るさでお客を迎え入れる。一言二言、賞賛の言葉をミズキに投げかけると、彼女はわずかに俯きながら微笑んだ。その笑みはとても儚いものだったが、彼女を取り囲む白い薔薇によく似合っている。
 スタジオの中にはシャッターの音だけが響く。一枚、また一枚とカメラと繋がれたパソコンに写真が表示されていく。
「顎を少し下げて」
 カメラマンの声に、ミズキは静かに従った。
 笑ってはいない。けれど、けして逃げてもいない。ジウンはその瞬間に初めて、彼女が撮られているのではなく、この場に立っているのだと気づいた。自分の意思で、しっかりとこの場所に。
 つられるようにジウンも今ここに自分がいることを確かめるように姿勢を正す。
 モニターには何十枚ものドレス姿のミズキが並ぶ。ジウンにはどれも美しく、どれも正解に見えた。ミズキはカメラマンとモニターを見つめ、マウスを使って写真を一枚一枚確認する。その手つきは慎重なものだった。
 ここに特別な瞬間を求めてくる人たちはすでにどこかすり減っているような印象があった。でもそれはすり減っているんじゃなく、自分の人生としっかりと向き合い、選択をしている人特有の勲章の傷、みたいなものなのかもしれない。ミズキのまっすぐな眼差しには覚悟が滲んでいる。自分の人生を大切に歩みながらも、家族のことも大切にしたいという強い覚悟だ。
 

「ありがとうございました」
 普段着に着替え深く頭を下げるミズキにジウンは同じように頭を下げた。
「素敵な写真になったと思います」
「母も喜んでくれるといいんですけど」
「きっと、大丈夫です」
「また、ここに来たいです。今度は本当の花嫁として」
「お待ちしています」
 
 片付けを終えたあと、ジウンはドレスルームに立った。
「ジウン、今日は時間、押さなかったわね」
 ミンジはそれだけ言い残して部屋を出て行った。
 彼女の胸の中で何かがそっと落ち着いた。
 ドレスルームの鏡に映る自分は、いつもと同じきっちりとしたまとめ髪で、皺ひとつないベージュのスーツを纏っている。
 彼女はそっと自分の手を握る。もう指先は冷えていない。ジウンはもう一度、鏡に映る自分を見つめ、背筋を伸ばした。

終わり

作・松井玲奈

まつい・れな 1991年生まれ愛知県生まれ。2008年芸能界デビュー。俳優として活躍する一方、執筆活動にも取り組み、2019年『カモフラージュ』で作家デビュー。主な作品に『累々』『カット・イン/カット・アウト』『私だけの水槽』『ろうそくを吹き消す瞬間』など。現在、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』にハーマイオニー・グレンジャー役で出演中。10月26日(月)よりNHK夜ドラ『青の花 器の森』に主演・馬場青子役で出演。

イラスト/深川 優