【web連載小説│毎週日曜よる9時配信】作・松井玲奈「ヨジョン」-第2話-
『CLASSY.』『VERY』『STORY』、それぞれの読者像を主人公にした、人気作家によるwebアンソロジー企画。テーマはエンタメやファッション、美容、そして文学など、私たちの心をつかんで離さない「韓国」。そこにまつわる、“今を生きる女性”を描きます。『CLASSY.』の第一回目は、松井玲奈さんの『ヨジョン』。毎週日曜日の夜9時に公開します。
江南にあるこのスタジオはいつも新しい布の匂いがする。丁寧にクリーニングされたドレスはどれも新品同様の美しさを保っている。このドレスルームに入る瞬間がジウンは好きだった。布の匂いは神聖な空気を作り、ドレスに装飾されたビーズは花嫁姿に憧れる人たちを美しく見せることを待ち侘びているように光り輝く。どれも誰かの人生を普段と違って見せるためにここに用意されている。この空間でドレスを愛おしそうに見つめる人たちを見守ることができるだけで、この仕事について良かったとさえ思える。
「一般的に人気なのはこちらのプリンセスラインのドレスになります。どんな方にも似合いやすい万能な形です」
ジウンが見せたのは、胸元がハートカットになったプリンセスラインのドレス。スカート部分には繊細な薄いチュールが重なっており、そのレイヤーによってたっぷりとしたボリュームが作られている。ジウンはきっとミズキにも似合うだろうと思った。
「ドレスのバックにつけられるパーツもありまして、こちらをつけると裾が長くなるのでバックショットも綺麗に写せると思います。いかがでしょうか?」
「……これは、写真に残りますよね」
写真を撮りにきているのになぜそんなことを聞くのだろうか。しかし、あまり詮索するのも良くないと、ジウンは頭に浮かんだ疑念を振り払うように、「もちろんです」と口角を上げて返事をした。
「よかったです」
そう言った後、彼女は手にしたスマホを強く握りしめた。
ドレスルームを歩きながら説明を続けても、ミズキの表情は曇ったままだった。撮影をするまでに彼女の緊張を解すことができるだろうか。ジウンの指先はより冷たさを増し、つま先まで冷えていく感覚が襲ってくる。全身に血を巡らせるように黒いエナメルのパンプスの中で足の指をモゾモゾと動かしてみるけれど、毎日の立ち仕事の影響で膨れるほど浮腫んだ足先がパンプスの中でさらに窮屈そうに悲鳴を上げる感覚だけが強く残った。
ミズキは浮かない表情のまま並んだドレスを眺めている。新しいドレスの前を通る度に、これはどんなデザインでどう見えるかなどをジウンが口にしても、彼女の耳には届いていない様子だった。
ミズキは時折、ドレスに手を伸ばして触れてみようとはするけれど、触れる直前に指先はぴたりと止まり、決して触れることはない。空中を漂っているその指先はまるで飛んでいるトンボが止まるのを待っているかのようだ。
ドレスを選ぶ二人の背後をヒールをカツカツと鳴らしながらミンジが通り過ぎていく。
「時間通りに撮影を進めることも私たちの大切な仕事」
またミンジの言葉が頭の中で聞こえる。
もちろんジウンはその言葉の意味を理解していた。しかし、ここで特別な体験をしてほしいからと、撮影予定時間を大幅に超えてしまうことが何度もあった。予約時間を過ぎて随分待たされてしまったお客から厳しい言葉をかけられ、その度にミンジに「あなたはどうしてそんなに要領が悪いのか」と小言を言われるのだ。
「スタジオは慈善事業じゃない。売り上げを上げる必要がある理由があなたにわかる?」
「お店のためです」
「そう。お店のため。そのお店で働く私たちのため、このスタジオを維持するため。それがここに来るお客様のためにもなってる」
「その通りです」
「わかっているならもっと効率よく働いて」
本当はスタジオではなく、結婚式場で働きたかった思いを噛み殺しながらジウンは「はい」と返事をしたのだ。
今日こそは上手く撮影を終わらせたい。ジウンは左腕につけた時計に目をやる。まだ時間には余裕がある。
ミズキは依然として自分の希望を口にすることはなかった。ただぼんやりとドレスを眺める間も強くしっかりと何か祈るようにスマホを握りしめていた。緊張することは誰にでもよくある。ここに来る人たちの中にも、ドレスを身に纏うことに胸を膨らませ上機嫌な人もいれば、絶対に失敗をしたくないと緊張を滲ませている人もいる。ミズキは後者なのかもしれない。その緊張をどう解したらいいのかとジウンは頭を悩ませた。
「もし悩まれているようでしたら、まずは一着試着をしてみませんか? 実際に着てみるとイメージが湧くかもしれませんし」
「……そうですね。私に似合いそうなものがあれば着てみることはできますか?」
もちろんです、と返事をしながらチラリと背後を盗み見た。ミンジの姿はもうない。まずは一歩前進だ。
「では、試着室の中でお待ちください。ドレス用の下着とドロワーズをお渡ししますので、ドレスを持ってくる間にお着替えをお願いします」
ジウンが渡した下着類を手にミズキは試着室のカーテンの向こうへ入っていった。その足取りはゆったりしているというより、ずっしりと重たいものだった。
ドレスルームには数え切れないほどのドレスがあり、種類も様々なものが用意されている。自分の記憶を頼りにまずはできるだけシンプルなものを探していくことにした。これは飾りが多すぎるし、こっちはミズキの体形に合わないかもしれない。考えれば考えるほど、良いものはどれかわからなくなる。より良いものをと思う程どれも違う気がしてしょうがない。凝り固まった眉間を解すために触れた指先があまりにも冷たく、ジウンは引き剥がすように自分の手を払いのける。
「何を迷ってるの?」
「ミンジさん」
まずいことになったとジウンは瞬時に感じた。
「ドレスはもう決まった?」
「……いえ」
「なんで?」
「お客様が選びきれず、こちらから提案するのはどうかとなりまして」
「あの方、やっぱり言葉があまり通じてないんじゃないの?」
「いえ、それはないと思います。今は下着にお着替えをしてもらっているところなので、大丈夫だと思います」
オドオドと歯切れ悪く受け答えをするジウンの言葉が本当かどうか疑うような眼差しをミンジは向けてきた。その眼差しから逃げるように視線を落とすと、ミンジは一歩詰め寄り強い口調でジウンを責め立てる。
「まずは体を動かす。お客様が悩んでいるならまずは一番人気のものを持っていけばいいじゃない」
「そうなんですが……それが希望に添えないものだったらと思うと……」
「普段着と違ってドレスは特別なものなんだから、誰もが自分に似合う形がわかるわけじゃないの。わかってるでしょ?」
「はい」
「だったらまずはなんでもいいから着てもらう」
ミンジが踵を返しドレスルームの入り口に飾ってあるトルソーのところまで滑るように歩いていくので、ジウンは慌ててその後を追いかけた。パタパタと小走りする音がドレスルームに響くと「走らない」とピシャリと制されてしまう。
トルソーに着せているドレスは細かなビーズが一面に装飾されたとても豪華なものだ。部屋の照明の下でも目を引く輝きを放ち、この部屋に入ってきた人が自然と目を奪われるデザイン。ドレスをトルソーから外しているミンジを眺めていると、「突っ立ってないで手伝って」と言われ、ジウンは慌てて近づいた。
気まずい沈黙が部屋の中に流れている。トルソーから脱がす間、ドレスの裾を汚さないようにしっかりと持ち、作業をじっと見つめていた。ミンジの手捌きには無駄がない。次に何をすればいいのか全てわかっているような動作は流れるようで、あっという間にトルソーからドレスが外れていく。
「あなた、私のことが苦手でしょ」
不意に投げかけられた言葉にジウンは驚いた。
「私が話しかけるとすぐに目が泳ぐから」
ジウンの目が自然と宙を彷徨い、それを捕まえるように「それ、その目」と指摘されてしまう。
「ここで働くのは楽しい?」
「え?」
「この仕事は好きか聞いてるの」
ジウンは小さな声で「もちろんです」と答えた。
「だったらもっと楽しそうに働いて。私に怒られないかとか、いろんなことを気にしてオドオドするのかもしれないけど、お客様の前でもそれをしていたらダメでしょ。逆の立場ならどう思う?」
「とても不安になると思います」
「そう。だからこそまずは体を動かして」
でも、とジウンは自然と口を開いていた。
「でも、私はお客様のために仕事がしたいと思っています。ミンジさんの考え方は理にかなっていて、確かに効率的だと思いますが、それは来てくださるお客様にとって、失礼になってしまわないかと考えてしまうんです」
「その考え方が問題なの」
「え?」
「物事にはいろんな考え方がある。もちろん、あなたのようにお客様ファーストな考え方も大切。それは素敵なことだと思うわ。でも仕事はね、まずは自分のためにするの。自分で立てるようになるために、経験を積んで、その先でやっと人のために動くことができる。あなたは土台もできていないのに最初から人のために動こうとして、肝心の自分のぐらついた足元が見えていない」
返す言葉のないジウンは、込み上げてくる涙を堪えその言葉を受け止めた。
「ほら、ドレス。サイズは7号で問題ない?」
「はい、大丈夫だと思います」
「ならまずはこれを着てもらって、それからどうするか考えるの」
トルソーから外されたドレスのビーズの輝きがジウンの目にぼんやりと映る。ベージュのスーツの袖口でこぼれかけた雫を拭い、弱々しく返事をした。
「泣いている暇があるなら、まずは体を動かして」
第3話に続く
作・松井玲奈
まつい・れな 1991年生まれ愛知県生まれ。2008年芸能界デビュー。俳優として活躍する一方、執筆活動にも取り組み、2019年『カモフラージュ』で作家デビュー。主な作品に『累々』『カット・イン/カット・アウト』『私だけの水槽』『ろうそくを吹き消す瞬間』など。現在、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』にハーマイオニー・グレンジャー役で出演中。10月26日(月)よりNHK夜ドラ『青の花 器の森』に主演・馬場青子役で出演。
イラスト/深川 優
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