【web連載小説│毎週日曜よる9時配信】作・松井玲奈「ヨジョン」-第1話-

『CLASSY.』『VERY』『STORY』、それぞれの読者像を主人公にした、人気作家によるwebアンソロジー企画。テーマはエンタメやファッション、美容、そして文学など、私たちの心をつかんで離さない「韓国」。そこにまつわる、“今を生きる女性”を描きます。『CLASSY.』の第一回目は、松井玲奈さんの『ヨジョン』。毎週日曜日の夜9時に公開します。

 ジウンは予約表を二度見て、それでも不安に感じ、もう一度自分の目を確かめるために画面をスクロールした。午前十時。江南(カンナム)のスタジオ。撮影の枠は三時間半。衣装は一着。ウエディングドレス希望。ヘアメイクは撮影の一時間前に開始。
 条件だけ並べればおかしなところはひとつもない。けれど、備考欄にある一行が、何度見ても落ち着かなかった。

――新郎なし。新婦おひとり。

 ジウンは息をできるだけ深く吸って、細く、細く吐き出した。一人で撮影するウエディングフォト。最近は珍しくもないと、先輩のミンジは言っていた。
「誰だって自分の綺麗な瞬間を残したいってこと。深く考える必要はない」
 深くは考えない。目の前のお客様の特別な体験を彩るためのお手伝いに徹する。先輩たちがしているのと同じように、キビキビと働きたいとジウンは思っている。けれど、考えなくていいと言われるほど、なぜ、どうして、と疑問ばかりが頭を飛び交う。その度に「考えるより、まずは体を動かしなさい」と檄が飛び、体がぎゅっと小さくなってしまうのだ。
 本当はウエディングプランナーになりたかった。でも、その夢は叶うことなく、ジウンは今、ウエディングフォトのスタジオに身を置いている。この道に進むと決めた時、母は信じられないほどジウンを責め立てた。
「女一人でもしっかりと生きていけるようにちゃんと大学まで行かせたのに、あんたのやりたいことは人様にドレスを着せて飾り立てることなのか」と。
 でもそれが彼女の夢だった。子供の頃、両親の帰りを待ちながら一人食事を摂るのが常で、その時、一つのドラマと出会った。そのドラマでは余命いくばくもないヒロインが、最後の夢を叶えるためにウエディングドレスを身に纏い、愛する人とひっそり結婚式を挙げていた。真っ白なドレスは朝の光に照らされて朝露が煌めくように輝きを放ち、彼女の内側にある命の期限を優しく包み隠しているように見えた。
 最後に「夢を叶えることができて良かった」と美しい一粒の涙を花嫁がこぼしたとき、女性がとびっきり美しい瞬間に立ち会える仕事につけたらどんなに素晴らしいだろうかと考えた。いつか自分も誰かの幸せをサポートする立場になりたい、そう漠然と感じながら幼いジウンは硬く冷たいチヂミを飲み込んだのだ。
  
 予約者は日本人だった。
 ミズキ。二十八歳。通訳はなし。韓国語も日常会話程度なら話せるとメモには残されている。
 撮影のためだけにこの国に来る人たちは期待より先に疲れを滲ませていることが多い。慣れない土地、通じきらない言葉、非日常の衣装に袖を通す不安。彼らはここに来るまでにもう何かをすり減らしている。
 帰り際「ここで撮影をして良かったです」と言ってもらえることがジウンのモチベーションとなっていた。でも、周りの先輩たちにとってはより多くの顧客を獲得し、売り上げを伸ばすことが大切なことのように見えた。母に認めてもらうにはここで結果を残すしかない。それでも、売り上げのためだけに笑顔を重ねることにはまだなれなかった。
 ジウンは自分の手のひらを見る。緊張すると指先が冷たくなるのは、入社して一年たっても変わらない。正直、自分はこの仕事に向いていないのではないか、という考えがここのところ頭の中にこびりついて離れない。
 撮影の準備のためにドレスの在庫を確認し、スタジオのチェックもした。今日は素晴らしい秋晴れ。撮影のタイミングではスタジオの窓から外光がたっぷりと入るはずだ。やらなければいけないことは漏れなくきっちりとこなしている。それなのに指先が不意に顔に触れると、そのひやりとした温度に不安を掻き立てられる。
 今日の依頼人が希望するテーマは「クラシック」。純白のサテンと柔らかな光。白い薔薇と緑に囲まれたスタジオで撮影がしたいとオーダーされている。
「この後のお客様のための準備はしたの?」
 振り返ると髪を隙なくぴっちりとまとめたミンジがいた。
「はい。日本人のお客様がいらっしゃいます」
「通訳は?」
「お話しはできるようなので通訳さんはいないです」
「それ本当に大丈夫なの?」とミンジは懐疑的な眼差しでジウンを見ている。悪いことなどしていないのに、その声色や眼差しが向けられるだけで自分が責められている気持ちになった。
「もし言葉がままならないようならすぐに私に言ってね。あなたが担当する撮影はいつも時間がかかりすぎるから」
「はい。気をつけます」
 ミンジはテキパキと仕事をこなし、一日にいくつも撮影を掛け持ちしているこのスタジオのベテランスタッフだ。売り上げトップを常に維持している彼女のようになれたらと憧れを抱いていた頃もあった。
 スタジオのドアが開きジウンは反射的に顔を上げた。丸まっていた背中をすっと伸ばし、決まった位置に口角をくっと引き上げる。頭の中で「頭のてっぺんから糸で吊られているような気持ちで」、というミンジの言葉が響いた後、ああ本当にあの人が苦手だと思う。
 入ってきたのは一人の女性。予想していたよりずっと線の細い人で、大きなスーツケースを引いているのにその音がずいぶん控えめに響いていた。彼女は周囲を見回し、それからジウンの方にそっと視線を合わせた。
「こんにちは」
 日本語の訛りがわずかに混ざった韓国語だった。ジウンは慌てて、
「いらっしゃいませ。ミズキ様ですか?」
 と問いかけると彼女は小さく頷いた。反応が少しだけ遅れている。
 たった一人でここにやってきた彼女は、これから誰のためにドレスを着るのだろう。
「スーツケースをお預かりします」
「ありがとうございます」
「受付で保管させていただきますね」
 ミズキのスーツケースを引き取ったジウンはその軽さに驚いた。まるで空っぽのスーツケースのようで、ジウンの冷たく固まった指先でも何の抵抗もなく容易に扱うことができた。
 ジウンは打ち合わせスペースで大きなファイルをミズキに見えるように広げた。いつもミンジに言われていることを守りながら、一つ一つプランの説明を丁寧になぞっていく。
 お客様の表情をよく見ること。希望のプランと違ってもいい反応が現れた瞬間を見逃すな。利益を出すためには時にはうまく相手を乗せてオプションをつけること。でもそれは本当にお客様のためになっているのだろうか。うまく言葉を重ねるほど、自分の声が少し遠くから聞こえるような気がする。
「今回はウエディングドレス一着の撮影でお間違いないでしょうか?」
「……はい」
 ミズキの返事にはどこか迷いが滲んでいた。自分の言葉が早すぎたかもしれないと、ジウンは話すペースをわずかに落として言葉を続ける。
「カラードレスの追加も可能ですが、いかがいたしましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
 ミズキの韓国語にはわずかに訛りがあるが、それでも十分聞き取れるものだった。意思の疎通も問題なく取れている。ミンジを呼ぶ必要がないことにジウンは胸を撫で下ろした。相手の視線や表情のわずかな揺れも見逃さないようにと神経を研ぎ澄まし、より丁寧に、はっきりと言葉を伝えることに意識を注ぐ。
「では、お支度を始める前に、本日ミズキ様が着用する衣装を選びにいきましょうか。気になるものがあれば遠慮なく伝えてくださいね。撮影のアイテムや、ドレス、小物などを追加することも可能ですが、まずは試着をしてそれから一緒に考えましょう」
「それなんですが、えっと……」
「なんでしょうか?」
 ファイルに落としていた目線をミズキに向けて上げると、彼女は萎縮したように「やっぱりなんでもないです」と言葉を飲み込んでしまった。なれない環境で緊張しているのかもしれない。自分に置き換えてみれば、馴染みのない土地で少なくないお金を動かす決断をするのだ、気持ちが不安定になることもあるだろう。
「遠慮なさらず、なんでもおっしゃってくださいね。私たちはミズキ様の特別な瞬間を収めるお手伝いをしたいので」
 なけなしの笑顔を浮かべてそう伝えてみるものの、目を逸らしたミズキと視線が重なることはなかった。

第2話に続く

作・松井玲奈

まつい・れな 1991年生まれ愛知県生まれ。2008年芸能界デビュー。俳優として活躍する一方、執筆活動にも取り組み、2019年『カモフラージュ』で作家デビュー。主な作品に『累々』『カット・イン/カット・アウト』『私だけの水槽』『ろうそくを吹き消す瞬間』など。現在、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』にハーマイオニー・グレンジャー役で出演中。10月26日(月)よりNHK夜ドラ『青の花 器の森』に主演・馬場青子役で出演。

イラスト/深川 優