【web連載小説│毎週日曜よる9時配信】作・松井玲奈「ヨジョン」-第3話-

『CLASSY.』『VERY』『STORY』、それぞれの読者像を主人公にした、人気作家によるwebアンソロジー企画。テーマはエンタメやファッション、美容、そして文学など、私たちの心をつかんで離さない「韓国」。そこにまつわる、“今を生きる女性”を描きます。『CLASSY.』の第一回目は、松井玲奈さんの『ヨジョン』。毎週日曜日の夜9時に公開します。

 ジウンの腕の中にあるのはプリンセスラインのシルクのドレス。カウンセリングの身長と体重、実際に見た印象からすると、トルソーが着ていたこのドレスはミズキに妥当なサイズ感のはずだ。
 ドレスを抱え歩く時、彼女はいつも緊張する。裾が床に触れないように腕に力をこめる。何を大切に思うかは人によって違う。
 子供の頃、可愛いと思って摘んだ花を母に差し出した時、「こんな草をどうして渡すの」とゴミ箱に捨てられたことがあった。
 自分にとっての大切なものが、誰かにとっても同じとは限らない。そのことを、ジウンはこの仕事についてから何度も思い知らされていた。
「お着替えは終わりましたか?」
 試着室の中に声をかけると、ミズキのか細い返事が返ってきた。ドレスを落とさないように慎重にカーテンを開け、急いで中に入りこむ。試着室の中では無防備な姿のミズキが小さなスツールに腰掛けていた。彼女の剥き出しの腕は想像よりずっと細かった。無駄な肉がないその細さにわずかに心がざわつく。
 ジウンは壁にドレスをかけミズキに向き直る。パンプスを脱いだ足は解放されたにもかかわらず、じんじんと痛みを放ち続けていた。
 ミズキを全身鏡の前に立つように促し、ドレス用の下着を着付け直す。胸のカップの部分をしっかりと手で支えてもらい、背中に並んだホックを上から順にはめていく。早くドレスを決めてヘアメイクを始めなければ撮影時間が延びてしまう。そうすればまたミンジに怒られてしまうだろう。その緊張感がジウンの指先をより冷たくし、思うように動かなくさせる。
「ご用意したドレスは、このスタジオで一番人気のあるものです。きっとミズキ様にもお似合いになると思いますよ。まずは一度着てみて考えましょう」
 指先は動かないのに口角は決まった位置で止まり、唇は怖いくらいによく動く。頭に浮かぶ雑念を振り払うように、声色は努めて明るく、ハキハキと言葉を連ねながら手を動かしてみる。しかし冷たくなった手は、やはり彼女の思うように動いてはくれず、指先に血を通わせるように何度も手を握り直し、下着のホックをかけ損ねながらはめていく。
「一人で撮影する人なんていないですよね」
 ぽつりとつぶやいたミズキの言葉にジウンが顔を上げると、二人の視線が鏡越しにぴたりと合った。ジウンは弾かれるように目をそらしてから、そんなことはないと口にはしてみたけれど、その言葉にあたたかな温度を添えることができなかった。
 試着室にはホックをはめる衣擦れの音だけが響き、重く停滞した空気が流れていく。その淀みをかき消すように、ジウンはバサリとパニエを広げた。大きく広がったパニエが試着室のスペースの大部分を奪い、二人の距離は自然と離れていった。ドレスをパニエの上にふわりと載せてからミズキが体を通しやすいように真ん中を広げていく間もずっと、ミズキが鏡越しにこちらをみている視線を感じていた。
 こちらへどうぞと、彼女がミズキをドレスの真ん中へと促すが、ミズキは声なく頷くだけで、衣擦れの乾いた音がカサリ、カサリと鳴っている。
 引き上げたドレスの胸元には大きな隙間がパックリとできていた。これでは胸元から下着が丸見えになってしまう。鏡に映った自分の姿を見たミズキがそっと、
「これは大きいかもしれないです」
 と震える声で口にした。
「すみません」
 彼女は見た目よりずっと胸元が薄いタイプだったようだ。イメージを掴んでもらうための試着とはいえ、これは大きな失敗だ。そう考えた瞬間、ジウンの体からザッと血の気が引く感覚がした。
「別のサイズをお持ちします」とブカブカのドレスを着たままのミズキを一人残し、彼女は試着室を飛び出した。
 背中は冷や汗でぐっしょり濡れている。背中に張り付くシャツが不快でだんだんと呼吸が浅くなっていく。息を深く吸おうとすればするほど、おかしなことに酸素が体に入ってこなくなっていくのだ。グラグラと揺れる視界と重たい頭を冷たい手で抱え込みながらその場にうずくまった。
 そうしてじっとしていると、次第に呼吸が落ち着きを取り戻してくる。こういうミスは前にもあったし、そう珍しいことではない。落ち着いて考えてみれば、あれは大きなミスではなかった。ドレスの胸元が緩いのはよくあることだし、背面から布を摘まんで詰めてやればなんの問題もなかったかもしれない。心臓はまだ煩く音を立てているが、ジウンは呼吸を整え額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。それから冷たいままの指で自分の口角をぎゅっと上げてやり、明るい笑顔で試着室へと戻った。
「お待たせしました。一度、ドレスを詰めてみてもよろしいでしょうか?」
 胸元を押さえたままの状態でミズキは「はい」と頷いた。
 スーツのポケットからソーイングセットを取り出し、慎重に生地を縫い合わせていく。指先は動きにくいままだが、起きるかもしれない不安ごとを頭の中で並べるより、目の前のことに集中し手を動かすことで今自分が向き合うべきことが浮かび上がる感覚があった。
「終わりました。動いても大丈夫です」
 縫い縮めたドレスはミズキの胸元にピッタリと沿って美しいハートカットのラインを保っている。背中部分を詰めたことで、彼女の締まったウエストラインが強調され、体をより美しく見せている。ただ一つだけ、ミズキのメリハリの薄い顔立ちに対して、ドレスがあまりにも華やかすぎることが気になった。
「アクセサリーを着けて、首や耳元をさらに華やかにするとより素敵になると思います。これまでこのドレスを着た方を何人も見てきましたが、特別お似合いだと思いますよ」
 不安を覆い隠そうとする時こそ、人の口は不思議とよく動く。
 ミズキはしなやかな指先をゆっくりとドレスの胸元に沿わせる。ビーズの装飾たちが彼女の指先に抵抗するように反発していった。ミズキは小さく首を振り、
「これは違う気がします」
 とはっきりと口にした。
「……でしたら、お好みのものを探しにもう一度ドレスルームへいきましょうか」
「これもとても素敵だと思います。でも、いえ……本当は着たいものがあるんです」
「そうだったんですね。ではドレスのイメージを教えていただければ、ご希望に合ったものをこちらへ持ってまいります」
 ジウンの口から次々と言葉が溢れ出してくる。
「時間は大丈夫ですか?」
「もちろんです。納得したお衣装を着て、綺麗なお姿を残しましょう」
 その言葉に小さく笑顔を見せたミズキが「ありがとうございます」と囁くような声で感謝をこぼした。
「あまりドレスには詳しくないですが、その……昔韓国ドラマで見た女優さんが着ていたドレスがとても綺麗だったんです。それに似たものを着てみたい気持ちがあります。似合わないかもしれないですけど」
「何という作品ですか?」
「『永遠の約束』です」
「『永遠の約束』。確かヒロインが着ていたのは袖付きのパフスリーブ型のドレスですよね?」
「そうです。腕の部分に装飾が付いていて、スカートの部分はそんなにボリュームがないものだったと思います。でもそれに近いものは流石にないですよね。随分昔の作品ですし、今は流行りも違いますから」
「確かにこのドレスだとちょっと装飾が華美ですよね。あのドラマでドレスを着ていたのは、病院の中で身近な人に囲まれて結婚式を挙げる場面だったから、もっとシンプルなデザインでしたよね」
「はい。もしかしてジウンさんも見たことがありますか?」
「ええ。実は私がウエディングの仕事につきたいと思ったきっかけの作品なんです。確かこのスタジオにも袖のデザインが似たものがあったと思います。確認をしてきてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「ではそのままで少しお待ちください」

第4話に続く

作・松井玲奈

まつい・れな 1991年生まれ愛知県生まれ。2008年芸能界デビュー。俳優として活躍する一方、執筆活動にも取り組み、2019年『カモフラージュ』で作家デビュー。主な作品に『累々』『カット・イン/カット・アウト』『私だけの水槽』『ろうそくを吹き消す瞬間』など。現在、舞台『ハリー・ポッターと呪いの子』にハーマイオニー・グレンジャー役で出演中。10月26日(月)よりNHK夜ドラ『青の花 器の森』に主演・馬場青子役で出演。

イラスト/深川 優