千加野あい「振りかぶって、さよなら」 vol.1【web連載小説】

30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第六回は千加野あいさんの『振りかぶって、さよなら』。毎週水曜21時に公開します。

 自分が八股の末に生まれた娘だということを知ったのは、十六年前の父の葬儀の日のことだった。

 さあそろそろ骨だけになった父を迎えに行こうか、というタイミングで、その日一言も口をきかなかった祖母が、母に向かって「あばずれ女!」と叫んだ。

 病死という怒りの矛先がない死に耐えられなかったのだとしても、祖母の言い分には無理があった。祖母曰く、父の死因は母が八股をしたから。誠実な父は妊娠の責任を取らざるを得なかった。だから病気になった。

 これが二股なら、それ相応の道の外し方ができたのかもしれない。けれど八という数字は、股にかけるにはあまりに現実離れしていて、当時十七歳の私は、泣きじゃくりながらも中指を立てる母に、「どうやって……?」と訊ねるのが精いっぱいだった

 弟は早々に開き直った。高校時代、医者と結婚したいと言う初恋の人のために理系を選択し、別の先輩を追って難関大学に進学し、在学中にこれまた別の女を追ってブラジルへ留学、つい先月、日本で人妻に捨てられ、五年ぶりに帰省した二十七歳の弟は、私の知っている彼の倍、ごつく、浅黒く、身も心も逞しくなっていた。

 

「姉ちゃんは相変わらず安パイっていうか、冒険しねえのな」

 久しぶりに家族三人が集まったお正月。トースターの前で仁王立ちになった弟が、磯辺焼きを食べ終えた私に向かってしみじみと言った。彼の取り皿には、チーズをのせた焼き餅を迎え入れるための、オリーブオイルとブラックペッパーが用意されている。

「いいでしょ、おいしいんだから」

「そりゃ磯辺焼きはうまいよ、間違いねえけどさあ。ワンチャン、磯辺焼きよりうまいもんに出会えるかもだろ?」

「余計なお世話なんですけど」

「いいのよ燈子(とうこ)は。三十年以上そうして生きてきたんだから。あんただってそんな破天荒な生き方、今さら変えられないでしょ」

「母ちゃんがそれ言う?」

 空白の五年間がいかに女に振り回される人生だったかを弟が語り、母が負けじと八股の武勇伝やアラ還の恋愛事情を語る。語るほどの歴史がない私は、無心でみかんの皮をむいていた。

「姉ちゃん、三十四だっけ?」

「三十三」

「男とか女とかいねえの?」という不躾な弟の問いに、「いないのよ」と答えたのは母だった。「気になるやつも?」「いないいない」と続く失礼な会話にむっとして、わざわざ口にする必要もないのに「このみかん苦い」と言ってみる。すると母はなぜか、私の顔をのぞき込んできた。

「あら待ってこれ、いる時の反応よ。ちょっと燈子、どんな人なの? 片思い?」

「か、片思い? やめてよ気持ち悪い」

 なんて甘くてむず痒い響きだ。学生じゃあるまいし、片思いという言葉自体が持つ甘さに、恥ずかしくて身震いする。

 恋愛サバイバル体質の二人は、三十代の恋愛がどういうものか、これっぽっちもわかっていない。三十三歳ともなると、好きという気持ちだけでは恋愛なんてできない。けれども、恋愛のない結婚に対しては抵抗がある。複雑な年頃なのだ。

「どんなやつだよ?」

 弟がにやにやしながら焼き餅をよそって戻ってくる。何かを言うまで引き下がらない雰囲気だ。

「16タイプ診断を毎朝電車でやるような人」

 弟は「ふーん」と、私のむいたみかんの残り半分をまとめて口に放り、飲み込んでから「それって毎日やるもんなんだったか?」と首をひねった。母は「なによそれ」とこたつに潜って寝転がり、駅伝からお笑い番組にチャンネルを変える。

「性格診断みたいなもんだよ」「そんなもの診断してどうするのよ」という二人のやりとりを背で聞きながら、私はこっそり、磯辺焼きのおかわりを用意した。

 

「ここ、すごくちょうどいい雰囲気のお店ですね」

 マッチングアプリで知り合った男性とデートをするのは、野々宮(ののみや)さんで八人目だった。

 アプリの写真は華奢なボストンフレームだったが、今日は仕事終わりだからか、ウェリントンフレームの眼鏡。そのせいか、想像よりも凛々しい顔つきをしている。逆に、少し怖くもあった敬語を崩さない話し方は、メッセージで受けとるよりもずっと、穏やかで話しやすい。

「小森(こもり)さんがおすすめしてくださったお店、どれも本当に魅力的でした。いや、おすすめという言葉では収まりきらないな、まるで提案をしていただいているみたいな。さすがコンサルと言いますか」

「そんな、大げさですよ」

 野々宮さんには事前に、高すぎず安すぎず、気取りすぎないお店を三店舗分、個人的なおすすめポイントとともに送っていた。穴場というよりは、常にランキングのトップにあるような、どれが選ばれたとしても間違いがないお店。と言っても彼は「小森さんが好きなところで」としか言わず、結局は、あみだくじで決めたのだけど。

「具体的には、どんなことをなさるんですか?」

「えっと、私はITコンサルを担当してて、企業のDX化のお手伝い……簡単に言うと、何かしらのシステムを導入して業務を楽にしたい、って企業さんにいろいろヒアリングして、『じゃあAかBのシステムが御社に合いそうですねー、導入する際のシステムの設計や構築が不安なら、うちの専門エンジニアも派遣しますよー』みたいな感じで営業してます」

「いやさすが、説明もお上手でわかりやすい」

 ぱちぱちぱちぱちと小刻みに指先で手を叩く。

 メッセージのやりとりでも感じていたが、野々宮さんは生粋の太鼓持ちだ。とにかく相手を立てる、おだてる、いい気分にさせる。そこまで露骨だと、むしろ馬鹿にされているのではと訝ってしまうところだが、不思議と彼には嫌味を感じない。

「でも確かに、仕事では聞き役なので、受け身になっちゃうのは職業病かもしれないです。間違えたくないとか、炎上したくないとか、そういうのばっかり気にするのも」

「それが、小森さんの良いところではないですか。聞き上手な方が相手は話しやすいし、無駄な波風を立てないというのも、周りの人への配慮でしょう」

「そうなんですかね……弟には、たまには冒険しろって言われます。私、よく行く飲食店とかでも、最初に頼んだメニューをずっと頼み続けちゃうとこがあって」

「芯がブレないのも、素晴らしい美点です」

 野々宮さんとの会話が心地よいと感じるのは、何を言っても彼が否定しないでくれるからだろう。私が傷つかない、むしろ喜ぶような言葉を丁寧に選んで、気を遣ってくれる。良いところを褒め、悪いところも受け入れ。ありのままでいることを許してくれるような、そんな包容力を感じる。

 グラスに口をつけたタイミングで、バレない程度に、ふう、と息をつく。

 野々宮さんと初めて対面した時、直感的に、アリだなと思った。ただ、マッチングアプリでの出会いというのは、自分が好きな人を探しているのか、嫌いじゃない人を探しているのかがわからなくなる。私がしているのはあくまで婚活で、恋愛ではないのだと、そう、誰かに念を押されているような気分になるのだ。

vol.2に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

千加野あい

千葉県生まれ千葉県育ち。2019年、第18回「女による女のためのR-18文学賞」友近賞を受賞。近著に『どうしようもなくさみしい夜に』(新潮社)。

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