映画の応援コメントを書く、という不思議な仕事がある。事前に作品を観させてもらって、短い言葉を紡ぐ。書いたコメントはSNSで宣伝に使われたり、作品のホームページ内で「著名人コメントコーナー」に載ったりする。この「著名人コメントコーナー」に誰がいるのかは蓋を開けてみなければわからず、たまにものすごく有名な俳優さんやタレントさんと名前が並ぶこともある。こちらからすると「だったら先に言ってよ」である。
本当に有名な俳優さんやタレントさんは、コメントの格も違う。こちらは少しでもモテたくて必死に著名人っぽいコメントを捻り出しているのに、本物の著名人となるとさらっと書いた一言で全てを納得させるだけの覇気を感じられる。結果、応援コメントが一列に並んだとき、自分の小賢しさが目についてわんわん泣き出したくなる。昔は「有名人と名前が並んでる!」と純粋に喜んでいたけれど、そのうち申し訳なさが勝つようになり、今ではすっかり意気消沈モードである。それでもこんな機会がなかったら出会わなかったであろう作品を観られることが有り難く、毎度嬉々として鑑賞させていただいている。
しかし、ある日のこと。映画の宣伝担当の方がさらりと放った一言がなかなか鋭く心に刺さってしまったことがある。
「カツセさんみたいにフォロワーの多い人が発信してくれると、本当に助かりますよ」
私はそのときまで、自分はてっきり「小説家」とか「物書き」としてそれっぽいコメント(つまり文学的な、とか、叙述的な、とか、とにかく文章のプロっぽいニュアンスだ)を求められていると思っていたのに、実際はただフォロワーが多いだけのインフルエンサー枠だったってことですかね。
どうなんですかね!と、もちろんその場で食ってかかるようなことはできなかったけれど、その日は心に大量の傷跡をつけてトボトボと帰宅することになった。
そんなことを思い出したのは、先日ダウ90000という演劇&コントユニットの主宰である蓮見翔さんのラジオを聞いていたときに、蓮見さんがこの「肩書き問題」について語っていたからである。
蓮見さんはバラエティ番組に出るとき、「お笑い芸人」と名乗ることをおこがましく感じて、「脚本家」を名乗っているらしい。そのせいか、お笑い芸人の先輩方からはいつまで経っても「さん」付けされていて、敬語をやめてもらえないのだと言う。上下関係が厳しいといわれるお笑いの世界で、新人なのに敬語を使われる。これはつまり「あなたは芸人じゃないですよね」という牽制であって、同じ土俵に立っていないその距離感を示す道具として敬語が使われているのではないか、という話だ。
蓮見さんはその距離感がしんどかったらしく、しかし「芸人」と名乗るのはおこがましいし、肩書きに困っている、という結論だったように思う(酔っ払いながら聞いていたのでうろ覚えです)。
私は一応「小説家」を名乗るけれど、映画の宣伝担当の方からすれば「フォロワーの多いインターネットの人」なのかもしれないし、それはなんだか自分の中の大事なものが完全に無視されたような悲しさがあって、やるせなくなる。肩書きは自分が名乗ればそれでいい、というものではなく、誰もがその肩書きを認めてくれないと意味がないという結論に至るが、だとすると結局は「もっと頑張るしかない」というアホみたくシンプルな根性論を掲げるほかない。
ところで、「敬語」でもう一つ思い出したことがある。ある夜、友人たちと飲んでいたら「一番聞きたくない敬語は何か?」という謎すぎる議題で盛り上がった。そのときに最優秀賞に選ばれた回答が「元恋人が使う敬語」だった。ずっと親しかったはずの人がまるで他人以上に遠くに行ってしまったように感じられる最悪な魔法。過去の傷が突然疼き出したあの夜のことを、また性懲りもなく思い出すこととなった。
この記事を書いたのは…カツセマサヒコ
1986年、東京都生まれ。デビュー小説『明け方の若者たち』(幻冬舎)が大ヒットを記録し、2021年12月に映画化。二作目となる小説『夜行秘密』(双葉社)も発売中。
イラスト/あおのこ 再構成/Bravoworks.Inc
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