
旬の作家たちが揺れ動く30代の恋愛を描く、CLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜21時に公開します。最終回はカツセマサヒコさんの『となりの独り』を連載。
これまでのあらすじ
「僕(ヨイチ)」は三十代に入ってから、よく遊んでいたコッシー、ナナちゃん、志賀原(しがはら)の環境が変化し、皆で旅行するのもままならなくなっていることに寂しさを覚えていた。そんなとき、登録したマッチングアプリで出会ったハルさんと意気投合。旅行の約束までしたものの、彼女から「友達になりませんか」と提案され、その真意がわからず…。
ハルさんと再び会えたのは、それから三週間後のことだった。
お互いに仕事が忙しくなり、なかなか会うタイミングが計れず、気付けば寒さは和らいで季節は春を迎えようとしていた。ハルさんは家具メーカーで働いていて、しばらくは新生活に向けたキャンペーンなどで忙しいようだったけれど、お互いに候補日を挙げてみれば、今夜一日だけが見事に空白だった。
「終電、いつですか?」
僕が時計を見ながら尋ねると、
「あ、私はまだ全然、大丈夫です」
とハルさんは真っ赤な顔のまま答えた。
金曜の夜に会えたこともあって、今夜は二人とも、かなり酒を飲んでいた。ハルさんは三軒目のこの立ち飲み屋に入って、ようやく顔を赤くし始めたが、それでも僕への態度や素振りは一切変わらず、もちろん、ボディタッチなどもしてこなかった。
「……あの、よかったら、なんですけど」
「はい」
「今日は、どこかに泊まりませんか? 帰るのも、面倒で」
この店で飲み始めてからというもの、僕もはっきりと酔いが回ってきていた。気を抜けば、立ったまま眠ってしまいそうな睡魔に襲われているのもあって、酔いに任せるように、ハルさんを誘った。お酒の力もあったのか、羞恥心はそれほど大きくなかった。
ハルさんは、ほんの一瞬だったが、はっきりとショックを受けた顔をした。そんな気がしたが、僕の思い違いだっただろうか。覗き込むように顔を見ると、表情を悟られないようにしたのか、静かに俯いた。
これは、ダメだっただろうか。
そう結論づけようとしたところで、再びハルさんが、顔を上げた。しかし、目線だけはテーブルに向けられていて、思考が読みづらかった。
「いいですよ」
「え、いいんですか?」
「はい。明日そんなに早くないし。確かに、今から帰るの、面倒なので」
顔が赤いのは、酔っているから。そうわかっていても、ハルさんはどこか照れた様子で言っているように見えた。
「あの、じゃあ、お願いします」
少しだけ頭を下げると、ハルさんも何も言わず、同じ角度で、頭を下げていた。
頭の中は、喜びよりも、やや拍子抜けする気持ちのほうが大きかった。こんなに簡単にホテルに泊まることをOKするなんて、じゃああの「友達になりませんか」は、何だったのか。ナナちゃんの予想通り、初対面なのに積極的に見られるのが嫌だったから、ハルさんなりに引いた予防線だったのだろうか。
僕らは会計を済ませると、新宿の街に繰り出した。
終電も近づいた金曜日の夜の新宿は、大きな渦を生む。帰宅するために駅に向かう人と、夜こそ働き遊ぶための時間としている人たちが、幾重にも交差する。人混みに紛れて、僕とハルさんはホテル街を目指して歩いた。はぐれないように手でも繋ごうかと思ったが、ハルさんの両手はしっかりとコートのポケットにしまわれたままだった。
「コンタクトのケースを買いたくて。寄っていいですか」
ハルさんが、すぐ傍にあるコンビニを見ながら言った。
「あ、僕も、水とか買いたいので」
「お酒は?」
「いやー、もうじゅうぶん」
「あははは。じゃあ、やめときますか」
「え、飲みたいです?」
「いえ、ヨイチさんが飲まないなら、飲まないです」
ハルさんの横顔を見ると、早くもお酒は抜けてきているみたいで、肌の白さが再び戻ってきていた。飲み屋を出る際に水を飲んではいたが、この人のアルコールの分解速度は、一般人のそれよりも何倍も早い気がした。
コンビニに入ると、暖房の熱気が、頬の筋肉を緩めた。ハルさんはすぐに化粧品や歯ブラシなどが売られているエリアに向かい、僕もその横に立った。なんとなく物色していると、ちょうど自分の目の前の棚に、避妊具が売られていることに気付いた。
ホテルに置かれているコンドームは、使うのを嫌がる人がいる。もしも、誰かが意図的に針で穴でも空けていたら、と考え、使用を拒否するという。
そうした人に実際に出会ったことはないが、理屈はわかる。ハルさんも、そういう人かもしれない。僕は黙って避妊具を手に取って、さりげなく、買い物籠に入れた。
「え」
それが、ハルさんの声と、一瞬わからなかった。
僕は今まで聞いたことのない、ハルさんの低く冷たい声を聞いた。
「はい?」
「え、待ってください」
「はい」
買い物籠に入っている避妊具と、僕。その二つを、ハルさんは何度も見比べた。挙動があまりにも不自然で、こちらを強く警戒しているようにも見えて、どうしてそんな顔をされないといけないのか、戸惑いの中に放り込まれた。
「あの……、しませんよ?」
ハルさんは、僕の目を見ながら言った。やっぱり頬は白く、瞳には強く強く、何かを訴える力がこもっていた。
「え?」
「だから、こういうことは、しません。帰るのが面倒だから泊まるって、言ってたじゃないですか」
「え」
何を言っているのか、言葉の意図をうまく飲み込めず、僕はハルさんのことを、何か奇妙なものでも見るような目で見つめてしまった。同時に、馬鹿馬鹿しく思った。
「え、いや、えっと。でも、ホテル行くんだから、それってつまり、そういうことじゃないですか」
「いや、泊まるって言われただけです。する、とは言われてないから、行くと言ったんです」
そんな屁理屈って、許されるのか?
一瞬、頭がカッと熱くなって、でも次の瞬間、コッシーから言われた言葉が浮かんだ。
――そこで同意が取れなかったら、もうお友達確定。
「……え、これ、もしかして」
僕は、期末試験のテスト範囲を教師に確認するように、言った。
「例の、同意が取れてないってやつになってますか、僕ら」
なんとも、阿呆な質問だと、気付いたのは言い終えてからだった。
しかし、そんなはずはないと思いながら、少しでも客観視してみれば、この状況は間違いなく、僕が彼女の同意なく、ホテルに連れ込もうとしていることになるのだった。
ハルさんは、急に何も知らない他人になったような目をして、静かに言った。
「そういうことになりますね」
うわー、と、声に出ていた。自分が思うよりも、大きい声だった。どうしてか、立っているのがしんどくなって、店の角でしゃがみ込んでしまった。
「えー、あの、マジですか、これ」
バラエティ番組のドッキリにかけられたような、本当の恥ずかしさだけが、自分を襲っていた。こんなふうに、自分だけが勘違いをして張り切っていることがあるのか。
「これ、こんなに凹むんだ、これ」
僕が両手で顔を隠していると、上から、ハルさんの声がした。
「落ち込みます……?」
「……思ったよりすごく、恥ずかしいし、大ダメージです、これ」
「そうなんですか」
その場でしゃがみ込んでいる僕を、この人は、どんな目で見ているのだろうか。いや、それよりも、どうしてこんなに、自分がショックを受けているのか、それを考えると恥ずかしくて、でも今すぐにでも弁明しなければと、さらに焦った。
「あの、なんというか」
「はい?」
「本当に恥ずかしいです」
くす、と、かすかに笑う声がした。
僕はゆっくり立ち上がると、ハルさんの顔は見られないまま、「とりあえず、出ましょう」と言った。
「あ、出るんですか?」
「はい、ちょっとあの、もう、いいので」
何がいいのだ、と自分で思いながら、ハルさんを促し、一緒にコンビニの外に出た。
冷えた空気は心地よく、少しだけ、自分に冷静さが戻ってくるのがわかる。すると、ますます自分という男が、ダサく惨めに思えてきた。
「すみません。なんか」
「あ、いえ、別に、そんな」
遠慮します、と言わんばかりにこちらに向けられた手のひらは、真っ白だった。
「落ち込んでます?」
「あー、はい。とても」
「そうでしたか」
申し訳なさそうな顔をしたハルさんを見て、それでも謝りはしてくれないんだ、と一瞬思った。しかし、彼女が謝る筋合いはどこにもないのだ。本当に、一ミリも、ない。
「なんか、その」
「はい」
「断られると、僕は、どう転んでも恋愛対象にはなれないんだ、ということを強く突きつけられた気がして。そうすると、自分には人としての価値がないぞ、と言われたような気がしちゃって」
「いやいや」
「いや、それは大袈裟だってわかるんですけど、というか、それとこれは別ということも、わかってるんですけど。でもこれは、男ってそういう生き物なんだなーって、今、自分で実感してるところでして。その、ハルさんが慰めたりとか、ケアしたりとかはもちろんしないでいいんですね。最初から、ハルさんは友達になりたいとだけ言ってましたし、僕が勝手に、暴走して落ち込んでいるだけなので。本当に、すみません」
言葉にするほど、情けなくなる。何を、舞い上がっていたのだろうか。しかし、ホテルに行くことに同意したなら、そこにはそれなりの文脈があったような気もしてしまうから、本当にますます情けない。
「やっぱり結構、ショックだー」
改めて、感情がそのまま、声に出てしまう。
「大丈夫ですか?」
ハルさんの顔は、さらにお酒が抜けたように真っ白だった。この酔いが覚めた原因も、自分にあるのだろうと思った。
「大丈夫です。でも、けど、やっぱり、ホテルはやめて、今夜は解散してもいいですか」
「え、そうなんですか」
ハルさんは意外にも驚いた顔をした。まだ、「泊まるだけ」が選択肢として存在している表情だった。
「いや、あの、はい。逆に心の準備ができていなさすぎて、しんどくてですね。ここまできて、本当にカッコ悪くて申し訳ないんですけど、もう惨めすぎて、解散したいです」
沈黙がわずかに通り過ぎて、その一瞬すら、気まずい空気をはっきりと強調した。
「性欲しかなかった、ってことですか?」
「あ、いや、勿論、そうじゃないですけど……。一緒に飲んでいたときは、本当に全く、で。でも、ホテルに行けるって思った途端、もう、スイッチが入ってしまって。そしたら、今更拒まれても、そっち側しか考えられない、というか」
「そういうものなんですか」
まるで自分の住む地域とは関係のない土地の気象予報を聞いたような、決して親密とは言えない距離感を表す声で、ハルさんは言った。なんなんでしょうね、それ、と小さく呟いたのも、しっかり聞こえてしまっていた。
「すみません、タク代、出します」
「え、いやいや、そんな」
「いや、ここくらい、格好つけさせてください。ダサすぎたので」
「いや、でも」と、ハルさんは困ったような顔で言った。
靖国通りまで出ると、タクシーが無限に走っている。手を挙げると簡単に、一台が吸い寄せられてきた。
「あの、本当に、すみませんでした」
「いや、なんかあの、はい」
ハルさんは僕と目も合わせずに俯き気味に言ったが、開いたタクシーのドアに触れてから、こちらにもわかるような大きな深呼吸を、一度だけして、続けた。
「難しいです。難しいで済ませちゃいけないんですけど、いろいろ、難しいですよね。人間って、厄介です。コミュニケーションって、厄介です」
どちらが悪い、とか、僕をはっきりと責めるわけでもなく、それだけを言って、ハルさんはタクシーに乗り込んだ。数秒もせずに車は動き出し、西口の大きなガードに向けて走っていった。
たぶん、僕らはもう会わないと思った。
一瞬覗かせてしまった性欲によって、こうして壊れていく関係だったのだから、つまり彼女は、本当に「友達」が欲しかったのだ。この、既婚者や子持ちの割合が増えてくるだけで居心地が悪くなってゆく世界において、ひっそりと共に生き抜くための「友達」を、必死に探していたのだ。
僕にとっても、そういう存在がいてくれたら。
そう切実に考えていたはずだ。
実際、こうして歌舞伎町に一人になれば、僕が頭に浮かぶ連絡先のほとんどが、やっぱり家庭を持った人間ばかりで、誰も簡単には、新宿まで出てきてくれないだろう。
そしたら、また、独りだ。
そう思って、寂しくなる。
元から独りだったはずなのに、どうしてこんなに、孤独が際立つのか。今日は、二人だったからだ。誰かといた後は、孤独が強くなる。じゃあ、ずっと独りでいれば、寂しくないのだろうか。でもそれは、寂しさから逃げているだけなんじゃないのか。
上着のポケットの中で、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、いつもの四人のLINEグループに、通知が来ている。
もしかして、珍しく、この時間から飲みの誘いだろうか。
一瞬期待して、後悔した。
LINEには、生まれたばかりの子どもの写真が、アップされている。
〈生まれました。やったぜ〉
母親になった志賀原から届いた、四人グループへのLINEだった。
僕は「おめでとう」と踊るキャラクターのスタンプを押して、再びスマートフォンを、上着のポケットに押し込んだ。
ここからUSJまで、歩いて何日くらいかかるだろうか。
冷えた空気がコートを貫いてきていたが、どうしても今夜は、あの冷たく暗い部屋には、帰りたくないと思った。
Fin.
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
カツセマサヒコ
1986年、東京生まれ。大手印刷会社、編集プロダクションを経た後、2017年独立。2020年、『明け方の若者たち』で小説家としてデビュー。近著に『ブルーマリッジ』(新潮社)『わたしたちは、海』(光文社)など。
Magazine
