カツセマサヒコ「となりの独り」 vol.2【web連載小説】

恋に仕事に、惑う世代の30代。その揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。最終回はカツセマサヒコさんの『となりの独り』。毎週水曜21時に公開します。

これまでのあらすじ

定期的に集まっては飲んだり遊んだりしていたコッシー、ナナちゃん、志賀原(しがはら)、そして「僕(ヨイチ)」の四人組。三十代に入ってからそれぞれ結婚したり、子供ができたりと環境が変化し、いつしか皆で旅行するのもままならなくなっていた。そんな現状に、唯一の独身であるヨイチは寂しさを覚え始め…。

 寂しさ、というものを誤魔化すために、部屋にはいつも二つ以上の音を鳴らす。ラジオとテレビ、YouTubeとApple Music。その日の気分でコーヒー豆を選ぶように、雑音を自由に組み合わせて、部屋から静寂を追い出す。

 その習慣が始まったのは、つまり、無音で暮らすことを苦痛に感じるようになったのは、この部屋に越して、すぐのことだった。

 ちょうど一年前に、僕は、元恋人との同棲を解消した。

 結婚を前提に、とはよくいった話だが、そのはずの期間中に、彼女には別の恋人ができた。僕らの交際関係は打ち切りになり、だらだらと同棲を続けていることが気色悪く感じて、僕は早々に、不動産屋に駆け込んだ。

「男ですし、あんまり気にしないです」

 そう言って、オートロックもない2DKのアパートの、一階の角部屋に引っ越した。

 久しぶりの一人暮らしが、わずかに楽しみでもあった。同居人に束縛されていたわけではないが、誰にも気を遣わず、自由に暮らしていけること自体には、いくらか期待があった。

 しかし、たとえば今日みたいに、十年来の仲間との飲み会を終えて帰宅したとき、部屋の電気が一つも点いていないことは、こんなにも孤独の輪郭をくっきりと映すのかと、いくらかショックを受けた。二人暮らしをしていたときは気にならなかったはずの暗闇が、三十五を過ぎた今になって、どうしてだろうか、そのまま孤独に吸い込まれそうな、形容し難い不安に駆られる。

 部屋の照明を点けて、暖房のスイッチを入れる。テレビ画面にバラエティ番組を映し、YouTubeでゲーム実況動画を流した。体が冷えていたので、久しぶりに湯に浸かろうと、浴室に向かう。浴槽に栓をした後、ようやく上着を脱いで、オフィスチェアに腰を下ろした。

 新居に、ダイニングテーブルはない。PCデスクさえあれば、仕事も食事も済ませられる。敷き詰めた雑音の中で、PCをスリープから解除し、いくつか惰性のように仕事のメールを返す。そうしているうちに部屋は暖まり、心はいくらか落ち着いてきた。

 浴槽のお湯が貯まったアナウンスが流れて、風呂に入る支度をしようと、椅子から立った。

 そのとき、デニムのポケットに入ったままになっていたスマートフォンが、静かに震えた。

 半年ほど前に登録して、そのまま、ほとんど放置していたマッチングアプリからの通知だった。

 時刻は、深夜一時を過ぎている。

 コッシーも、ナナちゃんも、志賀原も、今頃家に着いて、パートナーと過ごしているのだろうか。

 いつもなら無視している通知を、今夜はどうしてか、受け流すことができなかった。

 

 

 翌週の土曜、JR西荻窪駅の改札の外は、静かに降り続ける雨に満ちて、水の中にいるみたいだった。風がないので屋根の下にいれば濡れることはないが、体温は容赦なく奪われていく。灰色の空や濡れたアスファルトをぼんやり眺めていると、黄色の傘が、不意に、視界の隅に映った。

「ヨイチさん、ですか?」

 いつの間にか、すぐ横に、女性が立っている。

 どこかで見たような、と思うのは、つい先ほどまで、何度もこの人のマッチングアプリのプロフィール写真を確認していたからだった。

「あ、ハルさん、ですか?」

「はい。よろしくお願いします」

「あ、こちらこそ、お願いします」

 テキストの印象と、あまり変わらない人だと思った。

 派手さはないけれど、自分の意思ははっきりと表明するし、品を感じる。プロフィール写真からはもう少し小柄な印象を抱いていたが、それはこちらが一方的に想像していた姿に過ぎないし、そもそも、出会ってほんの数秒で、こうして面接官のように人をジャッジしようとした自分が、気持ち悪く感じる。それを理由にアプリに触れるのをしばらくやめていたことを、ようやく思い出した。

 アプリにも、いろんな種類があって。

 そうやって、会社の同僚に薦められたのは、恋愛よりも友人探しにウェイトを置いているという、このマッチングアプリだった。初期設定の時点で、あらかじめこちらの性的指向や「恋愛に対する本気度」を設定することができて、「本気度」を下げるほど、友人としての付き合いを求めている人とマッチしやすくなる、という仕組みがあった。ほかのサービスでも似たような機能はあるのだろうが、なぜか同僚はこのアプリが一番だと言い切り、勢いに負けて登録したのが、半年ほど前のことだった。

「こうやってアプリで会うの、何人目ですか?」

 予約した店に向かって歩いていると、ハルさんが言った。西荻窪の道は狭く、傘がよく他人とぶつかった。

「あ、三人くらい、だと思います、たぶん。ハルさんは?」

「もう少し多いかもしれないです。五とか」

 その数が多いのか少ないのかわからず、曖昧な返事をして濁した。その態度が気に障りはしなかったか、早くも心配事が生まれた。

 予約していた店は、駅から歩いて五分もかからないところにあったが、今日は終日雨だったこともあり、店にはテーブル席に三人ほど座っているだけで、カウンター席は僕ら以外、誰もいなかった。

「僕だけかもしれないですけど、アプリで会う人たちは、何かあるとすぐ、収入の話で」

 マッチングアプリを通じて、三人の異性に会った。三人とも、友情から恋愛に発展することを、それなりに望んでいる人たちだった。彼女たちは、出会ったその日に、収入の話を始めた。まるでそれしか、話すことがないような空気があった。そもそも、「友人を見つける目的」と言われて薦められたはずのアプリのプロフィール欄に、「年収」の項目があること自体が、おかしいと思うべきだったのかもしれない。

「三十代になると、資本主義が、かなり前面に出てくるんです。収入が低いと、そもそもマッチ自体がほとんどしなくて。前にお会いした人は、待ち合わせ場所を麻布十番のバーに指定してきて、僕はそういう店に行ったことがほとんどないから、全然対応できなくて」

 初対面の女性に向けてする話ではないかも、と思ったタイミングで、ビールが運ばれてきた。一旦、乾杯をしてから、横に座るハルさんを見る。

「ハルさんは、どうして?」

「え?」

「アプリで、何人か会ったんですよね。どうして、その人たちではないと思って、僕に会おうと思ってくれたんですか?」

「ああ、えっと」

 ハルさんはタンブラーに口をつけて、でも中身をほとんど飲まずにテーブルに戻した。

「なんか、どうしても恋人が欲しい、とかじゃないんです。でも最近、親しかった友達が、みんな子どもを産んで、それから少しずつ、付き合いが変わってきてしまって」

 言葉にはしなかったけれど、体がわずかに跳ねてしまったので、それに驚いた顔をして、ハルさんが僕を見た。

「境遇が、ほとんど同じです」

「え、本当ですか?」

「はい」

 僕は何度も頷いてから、ハルさんに続きを促した。

「じゃあ、あの、ちょっと聞いてもらえますか? この前、あれ? なんでしたっけ、あの」

 ハルさんが、おでこの真ん中に人差し指を置いて、眉間に皺を寄せはじめた。

「最近、単語が全然出てこないんですよね、私」

「ああ、すっごくわかります、それ」

 口元が、むず痒くなる。人が真剣に何かを思い出そうとしているときに笑ってはいけない、と、必死に自制したが、次の瞬間に、抑えきれなくなってしまった。

「大阪の、遊園地の」

「あの、もしかして、USJですか?」

「あ、USJだ」

「嘘でしょう?」

 二人で大笑いした後、実はつい最近、全く同じようにUSJが出てこなかったのだと、ハルさんに話した。

 ハルさんは目を大きく開いた後、さらにもう一度、大きく笑った。肩を揺らして笑う様子がこちらまで愉快にさせた。なんだか、自分が面白い人間に思えてきて、居心地が良かった。

「それで、USJとニンテンドーミュージアムに行きたいって、友達に言ったんですけど」

「え、そこまで一緒だ」

「わ、本当に?」

「はい。それで見事に、フラれました」

「わ、私もおんなじ」

 ハルさんの目が大きくなって、僕を見つめた。僕は自分の身に起きたことーーつまり、コッシーや志賀原が出産と家庭の都合であまり乗り気でなかったことをーー、ハルさんの話から続けるように口にした。

「全く同じだ。私も本当にそれです。なんていうか、子どもを持つと、テーマパークの意味が変わるんですよね。昔は友達だけで行っていたはずなのに、いつの間にか子どものための場所になって。子どもを置いて大人だけで行くのは、かなり後ろめたい、みたいな。あんなの、全然知らなかったです。学校で教えてほしいくらい」

「むちゃくちゃわかります。それで、やるせなくなってたら、その日の夜にアプリの通知が来たんですよ、ハルさんから」

「すごい。なんか、ちょっとした運命みたいです、それ」

 運命、と言われた途端、自分の寂しさの穴が、じわじわと埋められていくような感覚があった。人と共有できる寂しさが自分にあったことが、実にささやかながら、幸福を連れてきてくれたような気がした。人は、寂しさで繋がることができるのだと思った。

 今日は、一次会だけで解散しましょう、とハルさんから事前に提案されていた。

 会う前にそうした提示をしてくれたことはむしろ有り難く、こちらも気負いなく受け入れることができた。

 二人で会計を済ませて、店の外に出た。雨は静かに止んでいて、うっすらと雲が割れ、そこから深く青い夜が顔を覗かせていた。駅に向かいながら歩き出すと、どこか思い詰めたような沈黙が通り過ぎ、そのあとに、ハルさんが言った。

「私たち、友達になりませんか」

「友達……?」

「私、未婚の人や、離婚して独身に戻った人を見かけると、ホッとするんです。それは、自分より下の人がいるとか、そういう誰かを見下すような意味じゃなくて。どちらかというと、まったく知らない国で迷子になっているときに、同じ言語の人間をたまたま見つけたような、そういう、温かい気持ちになるんです。自分はしばらく結婚する気がないし、だったら家族や子どもに気を遣わなくていい、自由に生きる人と、仲良くしたいと思ってたんです。USJの意味が、ずっと変わらない人たちといたいと思ったんです」

「……USJと、ニンテンドーミュージアム」

「そう。ニンテンドーミュージアムも。いつか、行きません? 私たち、いつでも自由に、どこにだって行けるんですし」

 改札をくぐり、反対方面のホームに向かうハルさんが、また連絡します、と手を振りながら言った。

 雨上がりの西荻窪が、僕にはぴかぴかと光って見えた。

vol.3に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

カツセマサヒコ

1986年、東京生まれ。大手印刷会社、編集プロダクションを経た後、2017年独立。2020年、『明け方の若者たち』で小説家としてデビュー。近著に『ブルーマリッジ』(新潮社)『わたしたちは、海』(光文社)など。

Feature

Magazine

最新号 202506月号

4月28日発売/
表紙モデル:堀田茜

Pickup