
30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。最終回はカツセマサヒコさんの『となりの独り』。毎週水曜21時に公開します。
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最近は、記憶力の低下が顕著だ。とくに横文字の単語が、引き出しの奥で何かが引っかかるように、出てこない。昨日は「オクトーバーフェスト」で、一昨日は「インターステラー」だった。
両手の人差し指をまっすぐに伸ばし、こめかみを強く押し込む。ぐりぐりと押し込みながら、うーんと唸ってみる。そのくらいのパフォーマンスはしておかないと、目の前で待たせている三人に申し訳ない気もした。
「わかる、出てこないよな、そういうの」
「認めたくないけど、前より出にくくなったよね」
いよいよフォローに回りはじめたコッシーと志賀原(しがはら)が、歳は取りたくないねえ、我々も、出会って十年ですからねぇ、と、わざとらしく老人めいた口調で言う。僕の向かいで空になったグラスを覗き込んだナナちゃんが、「なんかヒントとか、ないの?」と尋ねた。
「えー、あれだよ、あれ。テーマパーク。大阪の」
「大阪? えー、USJじゃなくて?」
「あ、それだ」
「え、マジ? 嘘でしょ?」
「USJ出てこなかったの?」
「やばいってそれは」
笑い声に、場が包まれた。そうだ、「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」だった。こういうのが、本当に出てこない。笑いながら謝罪するが、三人からしても、USJが出なかったのはゆゆしき事態だったようで、本気で心配そうな顔を向けられてしまった。
「でも三十代に入ってからさ、みんな、こんな感じじゃないの?」
共感を求めてみるが、「それでもUSJは出るって」とナナちゃんは即座に僕を切り捨てた。テーブルの上に置かれたグラスはすでに一つの氷すら残っておらず、つい先ほどまでなら残り一つの餃子をどう食べるかで譲り合いもできたが、今ではそれも綺麗さっぱり無くなっている。
頼んでいた会計伝票を、ようやく店員さんが持ってきた。
「んで、USJがどしたんすか」
志賀原がバックパックから財布を取り出しながら言った。
「あ、そうそう。あれさ、ドンキーコングのエリアできたでしょ?」
「あ、見た! あれ面白そうだよね!」
食いついたのは、ナナちゃんだ。
「わたし、USJ行ったことないんだよね、行きたいなー」
「ね、楽しそうだよね、アレ」
反応が良くて安心した。ここでリアクションが薄ければ、考えているプランは到底実現できそうにない。僕は小さく追い風に乗るように、三人に情報を開示していく。
「それにさ、京都にはニンテンドーミュージアムもできたでしょ?」
「あ、それ、私も気になってたー」
志賀原も顔を上げる。もう一息だ、と思う。予想では一番に反応してくれるはずだったコッシーがまさかの無反応なのは嫌な予感がするけれど、ナナちゃんと志賀原が乗り気ならば、いける気もする。僕はそのままの勢いで、プランの全貌を話すことに決めた。
「もしも、っていうか、たとえばだけど」
三人の視線が集まる。慣れない言い出しっぺになることにプレッシャーを感じ出すその前に、吐き出した。
「四人で関西旅行とか、どう? 二泊三日とかで」
思いついたのは、昨日の夜だった。
会社帰りに電車で、USJの広告を見かけた。今までも散々見てきたものだったので、真新しさはなかったはずだが、なぜかそのときは、車内に流れる映像に釘付けになった。そして、この三人の顔が浮かんだのだった。いつも、僕を含めた四人で、映画や、劇、お笑いライブ、ラジオ番組のイベント、脱出ゲームなどに誘い合って、最低でも月一、多いときは毎週のように集まり、都内近郊のエンタメを堪能し、時に酷評したりして、今みたく酒の肴にして遊んで過ごしてきた。金曜だった場合は、始発が来るまで飲み明かした日も何度かあって、そういう、遅れた青春みたいな空気が、僕らの周りをふわふわと包み込んでいたのだった。無限に生まれてくるエンタメを、元気なうちにできるだけ摂取したい。その目的だけで繋がっている四人ならば、関西旅行だってありなのでは、という目論見だった。
「それ、絶対楽しいじゃん!」
最初に反応をくれたのは、先ほどと同様に、ナナちゃんだった。身を乗り出すようなナナちゃんの勢いに乗って、コッシーも志賀原も、前向きに考えてくれないだろうか。期待を込めて志賀原の顔を見ると、彼女の視線は、下に降りている。
前よりも、はっきりと大きくなったお腹を、輪を描くようにさすっていた。
「さすがに、妊婦にはきついか」
そう尋ねると、志賀原は、自分のお腹に話しかけるように言った。
「いやー、行きたい。けど、流石にちょっと、どうなってるかわかんないっすね」
悔しさと寂しさに、期待を振り撒いたような声だった。
そうかあ、そうだよなあと、僕もそのお腹を説得するように、話しかける。
時期が悪い。そんなことは、わかっていたのだ。
しかし、むしろ、だからこそ、という、謎の見栄のようなものが、僕の中に確かにあった。
「いっそ、この子も連れてっちゃいますかね」
志賀原は陽気を装いながら、お腹を撫でた。
冗談めかした時点で、つまり、旅行はハードルが高い、と告げているようなものだった。
こちらも、手助けできることはするつもりでいるが、乳幼児を連れての旅行がどれだけ大変なのか、うまく想像できないぶん、説得力を持つ言葉を見つけられない。
「楽しいと思うのになー」
代弁するように声を上げてくれたのはナナちゃんで、その視線の先はさりげなく、志賀原からコッシーに向けられている。ようやく空気を察したのか、それまで黙っていたコッシーが、テーブルの上にスマートフォンを置いて、顔を上げた。
「いやー、絶対に楽しいだろうよ。わかるよ、わかる」
「じゃあ、いこ? いこ?」
ナナちゃんが、コッシーに喰らいつく。しかし、コッシーの表情は、明らかに硬い。
「ごめん、厳しい」
情が湧かないように、わざとはっきり言い切る。そんな声だった。
「えーなんでよー」
ナナちゃんは、駄々でもこねるように、両腕をぶらぶらと揺らした。
「あのな」
コッシーのため息が、はっきりと聞こえる。
「小学生の子と妻を家に置いて、友達とUSJに出かける夫なんてさ。それをやっちゃったらもう、帰っても居場所がないのよ」
「ああー」と、「えー」が、つまり、共感と否定が、混ざったような声が、僕とナナちゃんから出ていた。
そんなにも、家族というものは、個人に自由を与えてくれないものなのだろうか?
コッシーは、正社員として働いていて、同世代にしては給与も悪くないほうだと思う。家族との時間も(僕から見れば)かなり大切にしている。家事も全般できて、子の習い事の送迎を理由に毎週仕事を早く切り上げているのも知っている。今日だって、僕らと映画を観に行くために、昼間のうちに家族のぶんの夕飯を作り終えてから家を出たと話していた。
そこまでしてもなお、友達との旅行は、許されないのだろうか?
「コッシーさんちの子、USJとか、一番楽しみそうな年齢だもんね」
志賀原が、財布からお札を抜き出しながら言う。
「小一だかんね。ずっとマリオのやつ行きたいって言ってて、連れて行けてないのよ。ニンテンドーミュージアムも行きたいって言ってた。今、世界で一番好きなキャラ、マリオだから」
財布を取り出したコッシーの顔つきが、いつもと違って見えて、つまりそれは、父親の顔ってやつなのかもしれない。
そういうことか、と、急に全てを諦めたくなるような、冷たい予感に触れた。
僕だけが、気付いていなかったのだろうか。いや、気付いていてもなお、四人で行けないものかと、考えていたのだ。
ある程度年齢を重ねると、USJのようなテーマパークを「友達ではなく、家族で行く場所」と捉えはじめて、子持ちの既婚者が家族を置いてフラリと東京から行けるような場所とは、考えなくなってしまう。
これが十年前だったら、いや、コッシーの子どもが生まれる前であれば、きっと、もっと気軽に誘えたことだろう。結婚したぐらいでは、付き合いはたいして変わらない。しかし、誰かが子どもを持ち始めたあたりから、少しずつ「気遣い」がお互いに発生し始めて、もう、いつでも自由に集まって出かけられる仲間では、なくなりつつあったのだ。
つまり、僕たちは、少しずつだが確実に、今のままではいられなくなってきている。
その事実を、どうしても認めきれなくて、僕はこんな大それた旅行を企画したのだった。
「なんだよもー、みんな、大人になっちゃってさー」
笑いながら、大袈裟に背もたれに寄りかかる。
三人から漏れる笑い声は、僕のそれよりもはるかに小さく、やけに乾いて聞こえた。
同い年のコッシーは、六歳の男の子の父親。
一個下のナナちゃんは、年下の彼と結婚したばかり。
二個下の志賀原は、もうすぐ出産予定。
四人の中で独身は、僕だけになった。
vol.2に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
カツセマサヒコ
1986年、東京生まれ。大手印刷会社、編集プロダクションを経た後、2017年独立。2020年、『明け方の若者たち』で小説家としてデビュー。近著に『ブルーマリッジ』(新潮社)『わたしたちは、海』(光文社)など。
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