人生百年時代だなんて言われて久しいけれど、いまだに百歳近くまで生きる未来が想像つかないし、さらにはそのための人生設計もなんて言われても全く見通しが立たない。「来週が寿命です」と言われたら今週を全力で楽しもうと思えるけれど、「あと六十五年で死にます」と言われても実感が湧かず、「ダラダラしててもいいかあ」と笑顔で布団に潜ってしまいそうだ。
よくゲームや漫画のボスキャラが「魔族や鬼は不老不死だぞ」と勝ち誇ったように言うけれど、アレもきっと、退屈すぎてしんどくなった末のつよがりじゃないか。「世界征服」とか「地上を我が物にする」とか言い出したくなる気持ちも、不老不死なら理解できる。要するに暇の極致なんだよね、退屈なんだよね?わかる、わかるよ。俺も不老不死だったら世界を獲ってみたくなるよ。ほら、こっちにおいで。一緒に紅茶でも飲もうよ。といった具合に不老不死の魔族を思わず慰めてしまいそうだ。
2025年から企業は六十五歳までの雇用確保が義務づけられ、正社員なら六十五歳まで仕事を続けられるけれど、そこで会社を辞めたところで寿命の百歳まではあと三十五年も残されている。
三十五年も老後の暮らしがあるっていうのはどう考えても長すぎるし、どれだけ元気と言ってもその歳になれば足腰だって相当弱るだろうから、毎日病院に通う日々も覚悟しなきゃならない。家族や親戚にも迷惑をかけるだろうし(それを迷惑とは言わないんだよと家族側としては言いたいけど、自分が介護される側の立場だったらやっぱりなんとなく申し訳なく思ってしまうのです)、そんな未来を自分は受け入れられるのだろうか?別に安楽死を肯定したいわけじゃないけれど、テキトーにダラダラ生きるには百年ってやっぱり長いよなあと改めて思うし、さらにはイヤなことばかり続く人生だったり今この瞬間も過酷な環境にいたりする人からしたら「この最低な日々があとウン十年続くって言うんですか?そんなの無理無理」と早々に投げ出したくなる気持ちも、うっすらと共感できてしまう。
「こんなにしんどいのに、それでも生きる意味ってなんですか?」
明確な答えなんて存在しない質問を、数カ月に一度くらいの頻度で読者から尋ねられる。そのたび回答に戸惑っていたけれど、昨年の夏に同い年の友人が癌で亡くなって、自分の中でほんの少し、気休め程度に言語化できるようになった。
亡くなった彼は音楽がとても好きだった。とくに好きなアーティストが数名いて、その人たちのことを語るなら朝まで平気で話し続ける人だった。
彼が亡くなった昨年の夏以降も、彼が好きなアーティストは活動を続けている。いくつか新曲を出したし、そのうちライブもすると思う。
そこに、生きる意味の片鱗があると思う。別に音楽に限った話じゃない。映画も、洋服も、漫画も、小説も、絵画も、全ての「誰かの好きなもの」には新作が生まれる可能性がある。そして生きてさえいれば、わたしたちはそれを享受するチャンスがあるし、新たなジャンルの
「好き」に目覚めさせてもらえる可能性もある。「好き」は「楽しい」とか「嬉しい」に近いと思う。そして「楽しい」や「嬉しい」は、生きる意味を考える隙間をなくさせるくらい、心を満たしてくれる。
彼の好きなアーティストが新作をリリースするたび、彼の顔が脳裏に浮かぶ。彼の知らない未来を、自分は生きているのだと実感する。この新作のことをどうにか伝えたいけれど、あっちの世界にCDプレイヤーはあるのだろうかと本気で考えてしまう。
「生者が退屈に思うこの一日は、死者が生きてみたかった大切な一日」なんてことを、昔からよく耳にする。そんなこと言われてもダルいものはダルいしなあ、と思っていたものだけれど、きっと新たな「好き」に出会うためにわたしたちは生きているのだなと、最近は思う。
この記事を書いたのは…カツセマサヒコ
1986年、東京都生まれ。デビュー小説『明け方の若者たち』(幻冬舎)が大ヒットを記録し、2021年12月に映画化。二作目となる小説『夜行秘密』(双葉社)も発売中。
イラスト/あおのこ 再構成/Bravoworks.Inc