「そろそろアタシ、終電かも」
腕時計をわざとらしく持ち上げて、女は言った。「あ、そうだよね」と返しながら、男も腕時計を覗く。確かに時刻は、間もなく日付を跨ぐ気配を見せていた。
偶然のようでいて、本当は、お互いに確信犯だとわかっている。この後、ふたりがどうにかなっちゃうためには、どちらも帰宅手段を失う必要があるのだ。会計を終え、駅まで向かうスピードは、明らかに行きよりも遅かった。
四月の終わりの繁華街は雨に濡れていた。散ったばかりの桜の花弁が、名残惜しそうにアスファルトにくっついている。地面はところどころ、薄いピンク色に染まっていた。ゆっくり歩いて、二人は無事に終電を逃す。そんな出来レースみたいな夜の始まりを、コロナ禍以前の終電間際の改札で、何度か見かけた。
今となっては、そんなノリで男女がどうにかなっちゃうことは、なかなか難しい。三月中旬まで続いた緊急事態宣言中、飲食店の入口には「二十時閉店」の張り紙が出ていた。
わざわざ終電間際まで粘ろうとしたら、四時間近く寒空の下をさまようことになる。二十時過ぎにホテルにインするのは、ちょっと情緒に欠けるというか、いささか盛りが過ぎる気がする。
「だから、あの終電間際の攻防戦はさ、もはや過去の遺産になるんじゃないかって思うのよ」
そんな話を元同僚に聞かせていた。池袋にある、間接照明の雰囲気だけで単価を上げているような居酒屋だった。元同僚はいぶりがっこを噛みながら、違う意味で僕の話を否定した。
「そもそも私、そういう面倒な駆け引きがもうダルいんだよね」
僕はジョッキから口を離した。
「いやいや、面倒くさいって、どういうことよ。いいじゃん、ああいう軽率な恋の始まり、悪くないじゃん」。
まだ十八時過ぎなのに、ビールとつまみだけで食事をスタートさせるくらいには、我々の胃袋も歳を重ねていた。
「いや、どうにかなりたいのもわかるんだけどさ、そっから、面倒くさいじゃん。付き合う、付き合わないとか。付き合っても、なんか信じられないとか」
「あー、相手が何してるか気になるとか? 既読にならないとか?」「そうそう。そういうことで、気力や体力使ってるのが、バカバカしいんだよね」
カーっ! 何、その、枯れきった発言! 社会人一年目の頃のお前に聞かせてやりたいわ!と、いぶりがっこに手を伸ばしながら、僕は言った。しかし、これもまた人間の成長かもしれないな、とも思う。元同僚と出会って、十年近くの付き合いになる。恋多き乙女だった彼女も、いつの間にかクズ男に没頭するより、人生を省エネで充実させる方法を身に付けたというわけだ。
三十代も中盤に差し掛かると、結婚した話と離婚した話が、だいぶいい割合で耳に入ってくる。二十代で描いていた結婚のイメージがいかにファンタジーだったか、幼き自分たちを優しく見守るような眼差しになり、その一方で、シビアな現実に目を凝らしているのだ。
「パートナーにトキメキとか求める年じゃないし」と、冷えたビールのように鋭い切れ味で、彼女は言った。子供は欲しいが、まだ働いていたい。育児で自分を失うのが怖いと、続けた。
「友達のインスタがさあ、ある日から突然、子供の写真だけになるのよ。年賀状も同じ。私はさあ、赤ちゃんをフォローした覚えがないわけ。あんたの顔、あんたの生活が見たいのよって、ずっと思ってるのね」
あー、それはわかる、と僕も返した。その後も、元同僚は、たくさんの本音を吐露した。恋も結婚も出産も、煩わしいと言えばそれまでだ。そのいずれもしていない彼女が「自由になりたい」と言ったのが、なんだか胸に残る夜だった。
「まあ、でも、あの真夜中の独特の緊張感はさ、懐かしいけどね」
僕はその発言に何度も頷きながら、紙でできた箸置きを折り曲げた。
この記事を書いたのは…カツセマサヒコ
1986年、東京都生まれ。小説家/ライター。デビュー作『明け方の若者たち』(幻冬舎)がベストセラーとなり、2022年に映画化を控える。ツイートが共感を呼び、Twitterフォロワーは14万人に。
イラスト/あおのこ 再構成/Bravoworks.Inc
Magazine
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more
View more