千加野あい「振りかぶって、さよなら」 vol.6【web連載小説】

30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜21時に公開します。第六回は千加野あいさんの『振りかぶって、さよなら』。

これまでのあらすじ

恋愛に奔放な母のもとに生まれた小森燈子(こもりとうこ)は、その反動で冒険しない人生を送っていた。IT系企業に勤め、三十三歳で恋人もいないが、マッチングアプリで知り合った野々宮(ののみや)とは性格的に通じ合うものがあった。結婚相手として「嫌いじゃない」と感じるが、密かに気になっている六歳年下の平(たいら)という後輩がいる。安全なほうを選びがちな自分に疑問を覚えた頃、弟から母親が男にフラれて泣いている、と電話があり…。

「なあ、姉ちゃん頼むよ、来てよ。俺、出かけたいんだよ」

「いやよ、そんな様子見たくない」

「一生のうちに一度は見た方がいいって」

「世界遺産みたいな誘い方しないで」

 見なくたって、泣きじゃくる母の姿は容易に想像できる。亀のようにうずくまり、丸めたティッシュに埋もれた母を何度も目にしてきた。付き合う前にフラれるか、付き合ってからフラれるかの違いで、最後はいつだって、母は泣く。泣くために恋愛をしているのではないかと思うほど繰り返し見てきた光景を前に、そのたび私は、こうはなりたくないという思いを強くしていった。

 失恋した母なんて、今さらだ。今さらなのに、ふつふつと内から沸き起こる苛立ちがあって、気が付いたら、「……ねえ、もうやめてよ、恥ずかしい」と口をついていた。

 雰囲気を察した弟が、慌てた様子で何かを言っている。けれどもう、止まらなかった。

「ねえ、お母さん聞こえてるんでしょ? 自分がすごく気持ち悪いことしてるって自覚ある? コンプライアンスって知ってる? 自分よりずっと若い子に手出して、相手の迷惑になるとか、ドン引きされるとか……それだけならまだいいよ、SNSにさらされて、仲間内で馬鹿にされて、セクハラで訴えられて、そういうことされるかもしれないって、ちょっとは考えないの?」

 一息に言って、すぐ我に返る。「ご、ごめん……お母さんごめん、言いすぎた」と慌てて謝るが、ごそごそという衣擦れのような音しか聞こえない。しばらくして、「おどかすなよー」という弟の、のんびりした声がする。

「ごめん……余計泣かせたよね」

「大丈夫だろ、すぐスピーカー切ったし。移動してきたから、聞こえてねーよ、たぶん。ほいでそれ、どっから姉ちゃんの話?」

 かっと顔が熱くなる。さすが、女性経験が多いだけあって察しがいい。とっさに否定しかけたが、「……ぜんぶ」と白状する。

 私は母のようにはならない。こんな惨めで、恥ずかしい女にはなりたくない。そうして母を反面教師に生きてきた。そのおかげで私は、恥をかかない、傷つかないための生き方ばかりが上手になって。そんな自分を受け入れたつもりでいて。なのに。

 それなのに私はさっき、そんな自分が嫌いだと、野々宮さんに言ったのか。

 何も言えないでいると、「あ、わりぃ姉ちゃん」と、笑いを含んだ声が聞こえてきた。

「やっぱ聞こえてたかも。母ちゃん泣きながら中指立ててる」

 その光景を想像して、思わず吹き出してしまった。本当に恥ずかしくて、強い人だと思う。この失恋もまた、彼女の武勇伝の一つに刻まれるのだろう。そのことが、ほんの少しだけ、羨ましい。

 強い風に煽られて目をつむると、瞼の裏に平くんの姿が浮かんだ。それほど重くない段ボールを足で移動させるものぐさな仕草や、カフェカウンターにうつぶせになった丸い後頭部や――「あの人、話長いっすよね」と肩をすくめて笑った顔が、頭から離れない。

 その日も私は、話の長い上司につかまっていた。聞く側からすれば自慢にしか聞こえない話も、本人はアドバイスのつもりだから厄介で。邪険にすることもできず、仕事の手を止めて賜るしかないのだが、絡まれるのはなぜか、忙しい時ばかり。

 そういう時、「小森さんちょっといいですか」と割って入ってくれるのが、平くんだった。

 初めは、本当に用があるのだと思った。けれど似たようなことが何度か続き、どれも話を遮るほど急ぎとは思えない用件ばかりなので、助けてくれてるのかもしれない、と思うようになった。

 何かお礼を。でも、自惚れだったら。行ったり来たりする気持ちが、もうずっと、常に、心の深いところにある。

 バレンタインのチョコは渡せなかった。エナジードリンクも、ハーブティーも、コラボ菓子も、ぜんぶ自分で食べた。でも、あの時のお礼に買ったカフェのギフトカードだけは、まだ、財布の中に眠ったままだ。

 私たち、いつまで――野々宮さんか私か、どちらが言ったかわからない言葉がよみがえる。私はいつまで、やらない理由を探すのだろう。いくら納得できる理由を見つけたって、いくつかき集めたって、後悔することはわかっているのに。

 失敗を恐れて何度も見送ってきたチャンスが、今もまだ、目の前にあるのに。

「……今日、行けないや」

「え? なに?」

「私、今日、実家行かない」

 弟とその向こうの母に「ごめん!」と叫んで通話を切り、その勢いのまま社用のチャットを開く。美紗に返信をして、平くんの名前を探した。

【今から野球、行くので、私のキャッチボールに付き合って欲しいです】

 送信ボタンをタップする直前で、泣き崩れる母の姿が浮かんだ。フラれたらどんな顔で仕事をすればいいかとか、会社で噂されたら、セクハラで訴えられたらどうしようとか、そんな不安がいくつもいくつも、いくつも頭をよぎる。

 引き返すなら今だ、と思った。

 でも、行くなら今だ、とも、思った。

 両方の親指で送信ボタンを押して、今出たばかりの駅に走る。

 思い切り振りかぶって。全力で投げて。けれど大きく外れてしまったボールを、平くんは追いかけてくれるだろうか。

Fin.

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

千加野あい

千葉県生まれ千葉県育ち。2019年、第18回「女による女のためのR-18文学賞」友近賞を受賞。近著に『どうしようもなくさみしい夜に』(新潮社)。

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表紙モデル:堀田茜

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