千加野あい「振りかぶって、さよなら」 vol.5【web連載小説】

人生の踊り場にいる30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー、第六回は千加野あいさんの『振りかぶって、さよなら』。毎週水曜21時に公開します。

これまでのあらすじ

恋愛に奔放な母のもとに生まれた小森燈子(こもりとうこ)は、その反動で冒険しない人生を送っていた。IT系企業に勤め、三十三歳で恋人もいないが、マッチングアプリで知り合った野々宮(ののみや)とは性格的に通じ合うものがあった。結婚相手として「嫌いじゃない」と感じるが、密かに気になっている六歳年下の平(たいら)という後輩がいる。安全なほうを選びがちな自分を受け入れつつ、ふとした瞬間に焦りを感じていて…。

 野々宮さんと会うのは今日が五度目で、休日に会うのは初めてのことだった。相変わらず、何かが始まっているような、いないような曖昧な関係のまま。今日はお昼を食べて、映画でも観ようかという話になっていた。けれど、お互いに観たいものも観たくないものもなく、何を観るかはまだ決められないままだ。

 食後には、店のおすすめだというティーソーダを頼んだ。野々宮さんもそれに倣う。

 それまで、いつもの調子で話す私の愚痴に、「ひどいですね」とか「そんなことないですよ」とか「小森さんは間違ってないですよ」とティーソーダをカラカラと混ぜながら相槌を打ってくれた野々宮さんが、「置きに行った提案をするな、ってまた怒られてしまって」と言った時だけ、ストローをつまむ手をピタリと止めた。

「野々宮さん?」

「あ……いえ、昔野球をやっていたので、懐かしく思えて」

「野球と関係があるんですか?」

「置きに行くって、もともと野球用語なんです。……懐かしいな。私、小学生の時、親父の趣味で無理やり野球チームに入れられて、ピッチャーをやらされたりしてたんですけども」

 ゆらゆらと揺れるティーソーダの表面をじっと見つめたまま、「私もよく、野次られまして」と彼が話を続ける。

「観戦している近所のじいさんとかに、『置きに行くな、びびってんじゃねーぞ』と。全力で投げると私は暴投ばかりで、四球が怖いものですから。どうしてもストライクを狙いたくなって球速が落ちて……そういう時に」

 私はなぜか、自分が責められているような気持ちになって、「でもそれも、大事な戦略ですよね」と強く返した。

「はは、そうですね……私は、うるさいなって。これからなんだよ、って。今、置きに行くのは、いつか来るチャンスに備えてなんだから、最後に勝つためなんだからって。勝負どころで、ここぞって時に全力を出すために、今はまだ、その時じゃないんだって」

 勝てたんですか? と訊ねるつもりだったのに、口から出てきたのは「勝負できたんですか?」という言葉だった。目を細め、数秒沈黙した彼は、「どうだったかな」と自嘲するように笑う。

「もう、忘れてしまいました」

 それきり野々宮さんが口をつぐんでしまったので、真似をするようにティーソーダを見つめる。すると、人生の節目、節目で選んできた安パイの数々が、グラスの底から泡のように浮かんできた。高校受験の志望校も、大学も、就職先も――私はいつも、等身大より一つ下を選んで生きてきた。

 野々宮さんが見つめる先にも、「あの時」の映像が浮かんでいるのだろうか。その景色を私は見ることができないけれど、全力を出すはずだったここぞというチャンスを、何度も、何度も見送ってしまった情けなさは、私にも、わかる。

 私たちは、似ているのだろうか。

 ふと、マッチングアプリのコンセプトを思い出す。私と野々宮さんがマッチしたという、嫌いなものの価値観。

 私はずっと、野々宮さんは誰のことも否定しない、誰が相手でもありのままを受け入れる人なのだと思っていた。でもそうじゃないのかもしれないと、今初めて思う。

 彼が私を肯定するのは、自分と似た人間だからなのではないだろうか。私を否定することは、彼にとって自分を否定するのと同じことなのかもしれない。

「野々宮さんて、もしかして自分のことが嫌いですか?」

「……どうしてそう思うんですか?」

「私も、今の自分が嫌いです」

 微笑んで言うと、野々宮さんは大きくため息をついて、同じように笑った。

「私たち、いつまで……」と、野々宮さんが言った。私が言ったのかもしれなかった。その言葉を受けて、どちらかが、「もう帰りましょうか」と言った。

 

 ぼんやりしていたら、いつの間にか家の最寄り駅に着いていた。

 駅を出て、自宅に向かうまでの横断歩道の待ち時間に、スマホを開く。いつもは別れてすぐに送られてくる野々宮さんからのメッセージが、今日はない。代わりに、プライベートと社用、両方のスマホに、美紗(みさ)から野球の誘いが届いていた。

 そういえば、今日は取引先との親善試合の日だった。メッセージには、平くんも参加することになったことが書いてある。なんだかんだ、付き合いの良い子だ。

 ゆっくりと前を横切るワゴン車に、デート服に身を包んだ自分の姿が映る。アイボリーのニットとスカートのセットアップに、ヒールの細いショートブーツ。野球観戦にこの格好はどうなのだろう。山登りにおしゃれをしてくるみたいな、張り切ったイタいやつだと思われないだろうか。

 一度目の青信号を見送り、やはり今日はやめておこう、と二度目の青信号を一歩踏み出しかけたところで、着信があった。美紗かと思ったが、そこにあったのは弟の名前だった。落胆しつつもどこかほっとして、「なに」と電話に出る。

「あ、姉ちゃん? 今日実家来れる? って母ちゃんが」

「なんで」

「男にフラれたから慰めろって、めっちゃ泣いてんの」

 爪でも切っているのか、パキ、パキ、と小気味のいい音に交じって、確かに母の泣き声が聞こえてくる。

 大きくため息をついたら、一緒に全身の力が抜けていった。いい大人が何をやっているんだ。せめて、すすり泣くくらいの上品さはないものか。その大げさな泣き声に耳を傾けていると、「姉ちゃん?」と訝る弟の声がした。

「ああ、うん、聞いてる。またか、って、呆れてるだけ」

「いやぁでも、母ちゃんはマジですげえよ、ガチで節操ない。相手二十五こ下だぜ、姉ちゃんと同い年。すげえよ、アラ還の希望」

 褒めているのか、貶しているのか、慰めているのかわからない弟の言葉を聞き流しながら、よくもまあ、と思った。よくもまあ、そんな恥ずかしいことができるな、と。

vol.6に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

千加野あい

千葉県生まれ千葉県育ち。2019年、第18回「女による女のためのR-18文学賞」友近賞を受賞。近著に『どうしようもなくさみしい夜に』(新潮社)。

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