千加野あい「振りかぶって、さよなら」 vol.2【web連載小説】

恋に仕事に、惑う世代の30代。その揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第六回は千加野あいさんの『振りかぶって、さよなら』。毎週水曜21時に公開します。

これまでのあらすじ

恋愛に奔放な母のもとに生まれた小森燈子(こもりとうこ)は、その反動で冒険しない人生を送っていた。IT系企業に勤め、三十三歳で恋人もいないが、マッチングアプリで知り合った野々宮(ののみや)とは性格的に通じ合うものがあった。結婚相手として「嫌いじゃない」と感じるが…。

 オフィスの廊下で見慣れた後ろ姿を見つけ、「美紗(みさ)!」とつい呼び止めた。十七時前。保育園のお迎えがある美紗にとって、外出するには遅く、帰るには早い時間だ。振り返った彼女は「わー、小森ぃ」と手を振ってくる。

「ごめん、帰るとこだった?」

「大丈夫、大丈夫。チョコ買いに行こうと思って、バレンタインの」

「ああ……旦那さんに?」

「そー、実質自分用だけど。てか小森、私に用があったんじゃないの?」

「あ、そう。さっきレポート送ったから、明日確認して欲しくて」

「レポート? なんの?」

「マッチングアプリ、レビューして欲しいってお願いされてたやつ」

「ほんと! さすが、持つべきものは小森だ」

 野々宮さんたち八人の男性と出会ったマッチングアプリは、美紗がマーケティングコンサルを担当しているクライアントのサービスだった。他社サービスとの比較分析をするにあたり、リアルなユーザーレビューが欲しいとお願いされていた。

 家庭のある美紗本人が登録するわけにはいかない。できれば事情を知る社内の人間に頼みたいが、独身の後輩に頼んだらハラスメントにもなりかねない。ということで、同期で唯一の独身である私に依頼してくるのは、至極当然の流れだった。

「それで、どうだった?」

「悪くなかったよ。アプリのUIも直感的だし、何より、“好きの価値観より、嫌いの価値観が合う人”とのマッチングってコンセプトが尖ってていいと思う。ただ具体的に何が嫌いでマッチングされたかわからないのが……」

「わー、ストップストップ! そういうことじゃなくてさ、いい人、いた?」

 ああ、と息を吐く。やはり気を遣わせていたんだな。仕事の一環という言い訳がないと、行動に移せない面倒な私の性格を、美紗はよくわかっている。

「まぁ……いた」

「おおぉ! 待って詳しく聞きたい、今日もうあがれる? 一緒にチョコ買い行かん?」

 いくつか仕事は残っていたが、どれも今日までというわけではなかった。バレンタインの日はちょうど往訪の予定もあることだし、取引先用に用意しておくのも悪くない。

「すぐ支度するから、ビルの下で待ってて」

 

 急いでエレベーターを降りると、美紗は平(たいら)くんと立ち話をしていた。

 重めのマッシュヘア。顔の半分を覆うチェックのマフラー。大きなリュック。厚手のモッズコートは襟を立てられ、しっかり首元まで閉められている。本体は、ひょろ長く猫背なこともあり、あらゆる重力に負けてしまわないか心配になる。

「平も来ればいいじゃん、応援部隊でいいからさ。そのあと経費で飲めるよ」

「僕が行くわけないじゃないすか。イヤですよ、最近の三月ってまだ寒いし」

「えー、ワンチャンあるかなって。ていうか、寒くなったら端っこでキャッチボールでもしてればいいじゃん」

 どうやら、来月に行われる取引先との親善試合に誘っているらしい。確か主催は美紗の上司。前に彼女が、「会社行事の集客を強制されるのは何ハラにあたる?」と、愚痴っていたことがあった。

 美紗より先に私に気づいた平くんが、「おつかれっす」と小さく会釈をした。

「あ、うん、おつかれさまです。……美紗お待たせ、行こっか」

 私のその呼びかけに、「行こ行こ」と言った美紗と、なぜか平くんも一緒に歩き出す。

 まさか、このまま三人でチョコを買いに行くわけではあるまいな。先ほどの親善試合の勧誘もそうだが、美紗は人数が多ければ多いだけいいと思っている節がある。なんとなく、仕事の連絡を返すふりをして、二人の一歩後ろを歩いた。平くんを前にすると、いつも少し、緊張する。

 六歳年下の後輩である平くんは、私と同じITコンサル部の技術職。私たち営業が案件を受注したあと、クライアントの要望に応じて、システムの導入作業を担当してくれる……のだけど、実はITコンサル部の営業と技術の仲は、あまり良くない。というより、我々営業が一方的に、技術メンバーに毛嫌いされている。

 まあ、それも無理はない。営業の中には売上至上主義の人もいて、平気で赤字案件や炎上案件を取ってきたりする。受注しちゃえばこっちのもの、というやつで、その大半は意図的だ。

「炎上? するわけないじゃないですか、小森さんの案件ですよ」

 それまでまったく気にしていなかったはずの二人の会話なのに、平くんのその言葉が、すっと耳に入ってきた。思わずスマホから顔をあげる。様子を窺うようにこちらを振り返った平くんと、目が合った。

 なんだか、とても。とても、微妙な間が流れた。

 あえてお世辞のつもりで言ったにしては、平くんの反応があまりに気まずそうで。つい出た本音のような雰囲気に、どう反応していいかわからない。

 その微妙な空気を「さすが、安定と信頼の小森ぃ」と美紗が茶化すように壊してくれる。そのおかげでようやく私は、「何が食べたいのか言ってみなさい」とおどけることができて、平くんもほっとしたように、「じゃあ銀座の寿司で」と流れに乗った。

vol.3に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

千加野あい

千葉県生まれ千葉県育ち。2019年、第18回「女による女のためのR-18文学賞」友近賞を受賞。近著に『どうしようもなくさみしい夜に』(新潮社)。

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