朝比奈あすか「出会い」 vol.5【web連載小説】

人生の踊り場にいる30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー、第五回は朝比奈あすかさんの『出会い』。毎週水曜21時に公開します。

これまでのあらすじ

日系老舗アパレル企業に務める美咲(みさき)は半年前の四月、念願叶って憧れブランドの「rencontre(ランコントル)」の店長に就任。以前は「モテ服」として一世を風靡していたブランドだが、近年は売り上げが芳しくない状態が続いていた。そんな折、美咲は店舗近くのカフェで気になる店員に出会い、ある日思い切って連絡先を渡そうとするが…。

 今回は惜しかったけど、また次に渡せばいいや。あの時はそう思った。

 だけど、「次」は来なかった。一週間後にまた訪れると、店内に彼の姿はなかった。その次も、その次も、彼の姿はなかった。

 彼に会える日は二度と来なかった。

 やはり、彼にとっては一時的な仕事だったのだろう。辞めてしまったら、そこで終わりだと、ずっと分かっていたことだった。だけど、なぜか、そんな日は来ないと思っていたのだ。ずっとずっと紙をしのばせたまま、彼を見つめていられる、と。

「友達になってください」の紙は、新しい空気に触れることのないまま、バッグの中でいつしか皺がより、木枯らしが吹き始める頃、美咲はそれを取り出して捨てた。

 

 勤め先のアパレル企業が来春までに約三百店舗閉店させるという発表を、通勤時にスマホで見たネットニュースで知ったのは、駅前ロータリーの色づいたケヤキの葉が少しずつ散り始めた頃だった。グループ内の七ブランドを廃止することも発表されており、文中の図にまとめられていた廃止ブランド一覧に「rencontre」も入っていた。

 それを見た美咲は、即座にメールボックスを確認した。自分に何の連絡も届いていないのを見て、誤報だろうと思ったのだ。こんな大事なことを、まさかrencontreの店長である自分に会社が直接伝えないわけがない。

 しかし結局のところ、報道内容は全て事実だった。出勤した美咲が直接本社に問い合わせたところ、話がまとまり次第、社員への報告があるからしばらく待つようにと言われ、正式な連絡が届いたのは翌日のことである。

 美咲の気持ちを察した石丸が、

「前バイトしていた居酒屋でも、社長が不祥事で捕まったこと、社員さんはネットニュースで初めて知らされてましたよ」

 と言ってくれた。少しでも慰めようとしてくれる気持ちに感謝はしたが、全く心は晴れなかった。

 会社はコロナ禍を機に落ち込んだ業績を好転させることができずにいたのだという。収益力の改善を目指す構造改革を実施するために、「不採算店舗の整理」「全体の約十%に当たる計二九一店舗の閉鎖」……こうした情報の最後に、美咲の勤めるrencontre店の撤退も小さく通達されていた。

 落ち込んだ美咲に、本社から、新ブランドを立ち上げる企画チームへの異動の打診があったのは、翌週のことだ。

 リモート会議で最後に残るようにと指名され、本社の上席から突然その打診を受けた。全国各地の店舗の中で、美咲の売り場は前年比プラスの割合が特に高かったらしく、それを賞賛する言葉と共に、今の時代に合ったブランドの企画・立ち上げに携わってほしいと請われた。

 聞いた瞬間、大きな花火が打ち上がったかのような歓びと同時に、かすかな哀しみを覚えた。打ち上げ花火の、その真下の地面に、線香花火の先のオレンジがぽとっと落ちたかのような、そのかすかな哀しみは、あのrencontreが時代遅れになってしまったと、はっきり宣言された気がしたからだった。

 少女の頃から憧れた、控えめで楚々としていて可愛らしいrencontreが。

 着ている自分だけが気づくような華奢な飾りボタン、目を凝らせばわかるリボンのかたち、絹糸のように細いレースの模様。丁寧に作られた、美しく儚くフェミニンな洋服は、「今の時代に合ったブランド」ではないと、生みの親である会社に判断された。

 ほろ苦いそんな気持ちを飲み込んで、

「やりたいです! ぜひよろしくお願いします!」

 大きな声で、きっぱりと言い頭を下げた。

 何か質問や要望があったらいつでもメールで受け付けると言われ、回線を切った。その後で、ふと思い立ち、前々から考えていた提案をメールで送った。石丸のことだ。

 美咲は以前から石丸に、正社員登用の試験を受けるように勧めていた。というより、受けてもらえないかと頼んでいた。もし受けてもらえるならば、推薦人として、評価レポートを手厚く書くことも伝えていた。

 業績的にも状況的にも、決して自信をもって薦められる会社ではなく、むしろ、会社のほうが石丸を必要としているんじゃないかと思っている。

――新規店舗を立ち上げる際は、わたしの店舗で力を発揮してくれたアルバイトの者を販売職の正社員として雇用していただけると大変心強く……

 石丸がどれほど有能かを書いていたら、少しばかり文章が長くなって、やりすぎたかなと思うが、そのまま送信してしまう。

 自分の人生が、ゆっくりと動き出すのを感じていた。一方で、どういうわけか住み始めてから二年に満たないこの町にも、奇妙な愛着が湧いている。遠距離通勤にはなってしまうけれど、今のアパートから都心の本社に、通えないこともないという考えが浮かぶ。会議だけならリモートで参加できるし、特急に乗ればそう時間もかからないだろう。

 エバーフレッシュは、夜になるたび葉を閉じる植物だった。朝の光でのびやかに葉を広げる。いつしかひとまわり大きくなった。洒落た木製の温度湿度計やジャズミュージックが合う部屋を作ろうと、新しい家具や雑貨の購入に気をつけているうち、美咲の部屋はいつしかあたたかみのあるクリーム色と茶色で統一された。テキトウに散らかっていた部屋が、居心地のよい空間になったのはコンクルシオ・カフェとの出会いが始まりだった。

 彼に会えなくなってから、ふと思い立って調べてみて、「コンクルシオ」が「rencontre」と同じく「出会い」という意味だと知った時、「あー」と小さく声が出た。

 いくつものヒントを、いくつものチャンスを、神様はちゃんとくれていた。

 でも、もしかしたら、それらを逃したことも、始まりさえしなかったこともまた、わたしらしい人生なのかもしれないと、今になって美咲は思う。

 あの時あの紙を渡していたらとくちびるを噛んだ日もあったけれど、日々の仕事に追われるうちに強く焦がれた気持ちは次第に精彩を失い、今は彼の顔かたちもおぼろげだ。

――素敵なカレに声をかけられたのは、rencontreを着ていたから♡

 かつて流行ったキャッチコピーを思い出し、

「おっかしいなあ。あのカフェに行くたび、rencontreを着ていたのになあ」

 と、石丸に自虐の言葉を言えてしまうほどには、立ち直ることができたから。

 次は、素敵なカレに声をかけたくなる服を作りたい。そう思いながら、美咲は明日のために、アラームをセットする。

Fin.

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

朝比奈あすか

1976年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学卒業後、会社員を経て、2006年に群像新人文学賞受賞作の『憂鬱なハスビーン』(講談社)で作家デビュー。以降、働く女性や子ども同士の関係を題材にした小説をはじめ、数多くの作品を執筆。近書に『翼の翼』『いつか、あの博物館で。: アンドロイドと不気味の谷』『普通の子』など。

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