人生の踊り場にいる30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー、第四回はこざわたまこさんの『さみしがりやの恐竜たち』。毎週水曜21時に公開します。
これまでのあらすじ
去年の夏に夫と別れた「私=寺野(てらの)」は会社の飲み会で、同僚の奥平(おくだいら)と同じバツイチということもあり親しくなる。時々食事をして最後に握手をして別れるだけの友人関係だったが、いつしか彼に好意を持つようになっていった。しかし奥平が前の奥さんと復縁し、九州へ異動するという噂を聞いてしまう。さらに彼女は、奥平が社内の別の女性と一緒にいるのを見たことがあり…。
「私には、付き纏われてた、って」
「そうですね、最初は」
でもどうなるかわからないじゃないですか、恋愛なんて。そう言って、さっきまで組んでいた指をほどき、なぞるように自分の顎をさする。
「最初は面倒に思っていたけど、段々いじらしく思えてきた。憎んでいたけど、裏を返せばそのくらい愛情深かった。そんなこと、いくらでもあると思いますけど」
『奥平さん、本社では有名らしいよ』
『女の人が会社に押しかけてきたりとか、珍しくなかったみたい』
『嫁に出て行かれたっていうのも、どこまでほんとかはわからないけど……』
『相手から問い詰められたら、付き纏われてるって言って別の人のとこにいくんだって』
「……好きなんですか。彼女のこと」
「小学生みたいなことを聞くんですね」
ふふっ、と笑みをこぼし、私が笑っていないことを確認すると、さあ、と首を傾げた。
「僕にもよくわからないんです。ただ、いくら振りほどいてもきゃんきゃん纏わりついてくる犬っているでしょう。ああいうの、昔から弱いんですよ」
以前、奥平さんは自分のことを、女性不信と語っていた。でも、それは違うんじゃないか。奥平さんは最初から、女のことなど信じていないんじゃないか。
「でもそろそろ、彼女の耳にも届いている頃かもしれませんね。僕の再婚のこと。知っていて知らないふりができるほど、賢い人ではないので」
と同時にまたスマホが震えて、電話越しだと声が響くんだよなあ、あの人。そう言いながら、奥平さんは容赦なくスマホの電源を切った。
先週、直属の上司と会議室に入っていく田山(たやま)さんを見かけた。このまま復帰となるのか、会社を辞めてしまうのかはわからない。田山さんは二ヶ月ほど前から会社を休みがちになり、最近休職届を出していたはずだった。もちろん、奥平さんのせいだけではないのだろう。奥平さんの言う通り、二人の間には他人からは計り知れないような深い事情があるのかもしれない。でも、と思う。
それでいいんですか、と尋ねると、まあよくはないでしょうね、と突き放したような答えが返ってくる。でもどうしようもないんです、と奥平さんが肩をすくめた。
「僕の妻は、こういう僕が好きなんですよ。だから僕とやり直すんです。そして残念ながら、田山さんもこういう僕が好きなんです」
たしかに今回は、ちょっとかわいそうなことをしちゃいましたけど。そう言って、奥平さんはほんの少しだけ自嘲的な笑みを浮かべた。
奥平さんは多分、たくさん女の人を傷つけているのだと思った。そこらに生えた草を無差別に食(は)むように、芽吹いた花を踏みつけるように、たくさんたくさん、傷つけているのだと。傷つけていくのだと。これまでも、これからも。
「……これからどうするつもりですか」
「どうもしませんよ。妻が別れたいと言えば別れますし、田山さんにしたってそうです。僕は一度も、彼女たちの意志を踏みにじったことなんてない。だから僕は、彼女達がしてほしいと言ったことをしてあげているだけなんですよ」
ねえ寺野さん、と奥平さんが首を傾げる。
「何をそんなに怒ってるんですか」
「怒っていません」
怒ってるじゃないですか、とおかしそうに私の顔を覗き込んだ。
「ただ……。奥平さんは、不誠実です。自分の奥さんにも、田山さんにも。私はそれを言いたくて、いや、それを言いにここにきたんです」
「不誠実?」
奥平さんが私の顔をじっと見つめ、不誠実ね、とつぶやいた。
「……じゃああなたは、僕に何か意見ができるほど大層な御身分なんですか?」
奥平さんの口調に、え、とたじろぐ。
「あの時一緒にいた男性は、恋人か何かですか」
それを聞いた瞬間、比喩ではなく、さっと体温が下がったような心地がした。どうも、そうは見えませんでしたけど。奥平さんはそう言って、いじわるそうに目を細めた。
「白状すると、僕もあの駅であなたを何度か見かけたことがあります。そのたびに、違う男と歩いてましたね。最初は見間違いかと思いましたよ。普段のあなたのイメージとは、まるでかけ離れていたから」
お互い悪いことはできないですね。いつかの奥平さんの言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
「それを隠していたのは、あなたにも後ろめたさがあったからじゃないですか」
人付き合いが苦手、というのは本当だ。人と関係を築くことも、その関係を保つことも、信頼を積み重ねていくことも。なのに時々、どうしようもなく人恋しくなる夜がある。私が行きずりの男を求めてしまうのは、そういう時だ。この悪癖がいつから始まったものなのか、自分ではもう思い出せない。
こんなことはやめてほしいと何度夫に泣きつかれても、時には頬を打たれても、私は自分を変えられなかった。名前も知らないような男と肌を重ねることは、夫のような人間といちから信頼関係を築き上げることよりも、ずっとずっとたやすいことだから。
ただそれが、奥平さんのしていることと何が違うのかと問われたら、私は答えられないだろう。
「……私は、あなたとは、違う」
うめくように吐き捨てると、奥平さんはどこか諦めたような口調で、そうですか、とつぶやいた。僕たちは、いい友人になれたと思ってたんですけどね。残念です。
奥平さん、と声に出す。はい、と奥平さんは答えた。
「私は、奥平さんのことを友人だと思ったことは一度たりともないです」
今、奥平さんは出会って初めて、傷ついたような表情を見せている。それがうれしい。
「あなたは僕に、嫉妬してるだけですよ。僕への執着は、愛じゃない。ただの同族嫌悪です」
びしゃっ、と音がして、茶色い液体がテーブルにぶちまけられた。空のコーヒーカップが、目の前に転がっている。ほかほかと湯気が上がり、ワイシャツとスーツを汚されても、奥平さんの表情は変わらなかった。
周囲のお客が、え、何、と目配せし合い、別の誰かがカップルの痴話喧嘩、とささやく。
「今更こんなことを言っても、信じてはもらえないだろうけど」
そう言いながら、奥平さんは前髪からぽたぽた伝うコーヒーの雫を、ゆっくりと手の甲で払った。
「本当にうれしかったんですよ。寺野さんが、僕に言ってくれたこと」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「女の人に、友達になろうと言われたのは初めてだったんです」
リビングの明かりを点けると、殺風景な部屋にゴミ袋の山がずらりと並んでいる。いまやすっかり見慣れた光景だった。
なんだかお腹が空いたような気がして、汚れた床に無理やり足の踏み場を作り、カップ焼きそばにお湯を注ぎ入れる。三分数えてお湯を切り、容器の中身を箸で一混ぜすると、茹だった麺の香りがぷあんと辺りに広がった。付属のソースと辛子マヨネーズの小袋を思う存分かけて、がしがしとかき混ぜた。
『真咲(まさき)ちゃんは結局、誰のことも好きじゃないんだよ。俺のことも、自分のことも』
立ち昇る湯気をぼんやりと眺めながら、家を出ていく直前、夫が口にした言葉を思い返した。そうなのかもしれない、と思った。私はこの先、誰のことも好きにはなれないのかもしれない。かつての夫も、奥平さんのことも、私自身のことも。できたての焼きそばにふうふうと息を吹きかけ、勢いよくかぶりつく。少し遅れて、たっぷりかかったマヨネーズの辛みが、つんと鼻の奥を通り抜けた。
滅びてたまるか。
ゲホゲホと咳き込みながら、胸のうちで小さく唱える。
この先何回眠れない夜が訪れようと、耐えきれずその夜を見知らぬ誰かと過ごすことになろうとも。そう簡単に、滅びてたまるか。口いっぱいに詰め込んだ焼きそばを、無理やり一口で飲み込んだ。やっぱりちょっとだけ、辛子を効かせすぎたかもしれない。
それでも私は、箸を止めなかった。あと一口だけ。もう一口だけ。そうして乗り越えた夜の先で、いつか私はこのさみしさを、一人でも飼い慣らせるようになりたい。ペットボトルの水をぐいと飲み干し、最後の一口を箸で掻き込む。かなしい時や、さみしい時。そしてこんな時、恐竜は一体どんな声で鳴くのだろう。せめて最後に、それを聞いておけばよかった。そんなことを考えながら。
Fin.
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
こざわたまこ
1986年、福島県生まれ。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。2015年、同作を収録した連作短編集『負け逃げ』を刊行。近著に『教室のゴルディロックスゾーン』(小学館)がある。