千加野あい「振りかぶって、さよなら」 vol.4【web連載小説】

旬の作家たちが揺れ動く30代の恋愛を描く、CLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜21時に公開します。第六回は千加野あいさんの『振りかぶって、さよなら』を連載。

　オフィスの休憩スペースは、ちょっとしたカフェのようになっている。カフェカウンターの向こうにはコーヒーサーバーがあり、壁沿いにはドリンクとお菓子の自動販売機が一台ずつ。飲み物を求めて休憩スペースに向かうと、平くんが一人、カウンターに腰かけてパソコンを操作していた。

「おつかれさま」と声をかけると、平くんはびくっと大げさに肩を揺らし、振り返った。その拍子に、パソコンの画面が見えてしまう。

「よかった、小森さんか。めっちゃサボってました」

「サボるための場所でしょここ。……コーヒー淹れてくれてるの？」

「そっす。よければどぞ、余らしてもあれなんで」

「いいの？　ありがとう」

　コーヒーサーバーは一杯ずつ注げるタイプではなく、一度のドリップで二リットルくらいできてしまう。日中はデカンタが空になればその都度、総務の人が淹れ直してくれるけど、定時を過ぎたこの時間は、飲みたい人が淹れるしかない。

　淹れ終わるまでに十分ほどかかりそうだ。出直すべきかと悩んでいると、「INTJでした」と平くんがパソコンの画面を見せてくれた。

「え？　あ、性格診断？　16タイプの……今日の診断結果ってことだよね？」

「今日のっていうか、毎日っすけど。何回やってもINTJで、それ以外出たことない」

　それがどんなタイプなのか、私にはまったくわからない。今聞いたばかりの四文字も、この会話が終わり、ネットで調べるまで覚えていられる自信もない。それよりも、がっかりしたような平くんの様子の方が気になった。

「毎日やるのに、理由とかあるの？」

「えー……笑わないすか？」

「笑わないよ」

　平くんは一瞬だけ私を見て、そのままコーヒーサーバーに視線を逃がした。その横顔にはどこか哀愁が漂っていて、深刻になりそうな雰囲気に少し身構える。平くんの視線を辿り、ぽた、ぽた、と一定のリズムで滴るコーヒーを眺めていると、やがて、「僕の好きなアニメの」と彼が言った。

「新シリーズがね……始まったんすよ」

「え？　う、うん」

「でそれが、前シリーズの五年後の設定で、高校生だった主人公たちが、なんと社会人になってて」

「……うん」

「で、僕の推しっていうか嫁っていうかが、前シリーズとは別人？　ってくらいキャラ変しちゃって、もともとは内向的な子なんすけど、めちゃ陽キャっぽくなって、こんなのミコトじゃねえってネットですげー叩かれて。実際どうよって話がやっぱオタクの仲間内でも盛り上がるわけですよ。いや俺はね、成長したんじゃん？　って。大人になると考えもいろいろ変わるじゃん？　って。いやいや、とはいえ根本の性格は変わんないやろとか言うやつもいて。いやでもMBTIもその日の気分で変わるだろって俺は思うわけで。いやそれ、ほんとか？　って、じゃあやってみっかっつって、なら賭けようぜ勝った方が円盤な、って、今ココっす」

　相槌のタイミングもわからないほど、平くんの口調は熱を帯び饒舌になる。ようやく訪れた切れ間に「なるほど」と相槌を打った。

「それで平くんは、変わる方に賭けたんだ？」

「はい。でもこのままだと非常にまずいっす」

　それで、何度診断しても変わらない結果に、落胆していたわけか。

「変わる必要なんてなかったのにね」

すっと、そんな言葉が脳を通らずに口から出た。平くんがきょとんと首を傾げるが、驚いたのは私も同じだった。自然と出た言葉の真意が、自分にもわからない。

「あ、いや、ただ私は……せっかくありのままがいいって言ってくれる人が、平くんみたいな人がいっぱいいるんだから、無理に変わったりしないで、そのままの自分でいたって、十分幸せだったのにね、って言いたかったっていうか」

「ほんとっすよね……」

　ごつっとカウンターに額を打ち付ける。その後頭部に何か言葉をかける前に、「でもね」とくぐもった声が聞こえてきた。

「でもね、俺……僕は思うんすけど、ミコトが変わったのは、変わりたいって本人が思ったからでしょ。今のままじゃ許せない自分がいたってことでしょ。なら俺は、その気持ちを尊重したい」

　無意識に開きかけた口を、慌てて手の甲で塞ぐ。今、口を開いてしまったら、彼の好きなものを踏みにじるような発言をしてしまいそうだった。

　急に黙ってしまったことが不自然にならないよう、曖昧に笑うと、顔をあげた平くんは今さら自分の発言に照れたのか、「なんか、一気にしゃべったら腹減った」と照れくさそうに言った。

　デスクの引き出しに、余分に買ったバレンタインのチョコが入っている。そのことが頭を掠めて、でも、「もう帰ったら？」と言った。平くんが、「せっかくコーヒー淹れたのに」と笑う。

　あのチョコも、自分で食べる羽目になるのだろう。残業する平くんのために買ったエナジードリンクも、胃の調子が悪いと聞いて買ったハーブティーも、推しのアニメのコラボ菓子も、結局、自分で食べてしまったように。