千加野あい「振りかぶって、さよなら」 vol.3【web連載小説】

人生の踊り場にいる30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第六回は千加野あいさんの『振りかぶって、さよなら』を連載。毎週水曜21時に公開します。

これまでのあらすじ

恋愛に奔放な母のもとに生まれた小森燈子(こもりとうこ)は、その反動で冒険しない人生を送っていた。IT系企業に勤め、三十三歳で恋人もいないが、マッチングアプリで知り合った野々宮(ののみや)とは性格的に通じ合うものがあった。結婚相手として「嫌いじゃない」と感じるが、密かに気になっている六歳年下の平(たいら)という後輩がいて…。

「じゃ僕、駅、こっちなんで」

 帰る方面が同じだっただけらしい。反対方向に向かう猫背を見送りながら、「仲いいの?」と美紗(みさ)に何気なく訊ねる。

「平? ふつー。月一、二とかでランチ行くくらい」

「それ普通?」

「ふつう……じゃないのかな、じゃあ仲いいのかなぁ、わかんないけど。ねえ買い物さ、新宿でいいかな、いいよね、いいよー」

 もちろん、と頷く。こうして程よい強引さで決めてくれる美紗は、私にとってありがたい存在だ。

 地下鉄に乗り込み、会話の切れ目ができた頃、「で?」と美紗が言った。「で? って?」と訊き返すと、焦れたように「マチアプの! いい人ってどんな人?」と続いた。

「えっと、三十七歳男性、地方公務員、役所勤務」

「おぉ。どういうとこがいいと思ったの?」

「良いとこも、悪いとこも、ぜんぶ否定しないで受け入れてくれるとこかな」

 お酒タバコギャンブルもしない、普段浪費はしないけど、旅行とかお祝い事の時は贅沢したいというのが同じ価値観でいいと思った。三年前に結婚を前提に付き合っていた彼女に浮気されてから、女性不信で恋愛や婚活から遠のいていた。

 私が知り得た野々宮さんの情報をすべて話しても、一駅分の時間もかからなかった。美紗はそれに対して「いいじゃん」としか言わず、そのあとは仕事の愚痴を経由して、なんとなくまた平くんの話(推しのアニメキャラに貢いで金欠らしい)に戻り、それは、バレンタインフェアに到着してからも続いた。

「やっぱ小森は、ワンチャンを狙いに行けないんだね」

「ワンちゃん?」

 その時美紗が手にしていたのはトイプードルのチョコレートで、とっさに犬の話かと思った。けれどすぐ、ワンチャンスの方だと気づく。

「確かに猫の方が好き……あ、ねえ、これとこれと、これ、美紗、どれがいいと思う?」

 気づいていて、私は話題をそらした。

 選択肢にあげたのはすべて、どれを選ばれても間違いない、雑誌の手土産特集で取り上げられるような店のものだった。振り返ってすぐ、「私ならコレ」と美紗が指差したのは、チョコが厚めのラングドシャ。いいね、と頷いて取引先の分と、野々宮さんの分と、何かあった時用にもう一つ、余分にカゴに入れる。

「小森ぃ、チョコぐらい自分で……」と、何か非難めいたことを言われる気がして、「電子マネー使えるかな」と財布を取り出し、現金を確認するふりをする。中には千円札が二枚と、カフェのギフトカードしかなかった。

 美紗は何か言いたそうにしたまま、結局は「てかそれおいしそうだね、私もそれにしようかなぁ」と、明言を避けた。

 

 例えば、急げばホームに着いた電車に間に合う時。一歩、二歩先の座席が空いた時。例えば、リスクを許容すればもっと最適なプランをクライアントに提案できそうな時。例えば、意中の人と飲みの席で盛り上がり、誘えば二人きりで二次会に行けそうな時。

 そういう“ワンチャン”が狙える時、踏み出そうとする一歩を止めてしまうのは、いつも、俯瞰的な私だ。

 大丈夫? それ、失敗すると恥ずかしいよ、と。

 扉に挟まれるくらいなら次の電車を待つし、取り合いに負けるくらいなら立っているし、炎上するくらいなら、クライアントのためにならなくても妥協したプランを提案するし、フラれて気まずくなるくらいなら、自分からアプローチしない。

 ――炎上? するわけないじゃないですか、小森さんの案件ですよ

 あの一瞬、微妙な空気が流れた。平くんがそれを、褒め言葉として言ったのか、皮肉のつもりで言ったのかはわからない。でも私は、自分の言動が同僚たちの間で「置きに行っている」と揶揄されていることを、知っている。

 決断できない、冒険できない。置きに行った提案をするな。失敗をしてもいいから、全力で何かに取り組んでみろ。面談のたびに、上司から注意を受けていることだ。

 でも私はもう、そんな自分を受け入れてしまっている。これが私らしさだと。この性格とともに三十三年もやってきた。今さら変わることなんてできないし、むしろ、歳を重ねるごとにその傾向は強くなるばかり。

 ただそれでも、ふとした瞬間に、三十三歳の今の自分に焦りを感じることがある。年齢そのものというよりは、三十三年分の歴史の浅さに――これだけのことを頑張ってきたんだと胸を張れることが一つもないことに、私は、焦っている。

vol.4に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

千加野あい

千葉県生まれ千葉県育ち。2019年、第18回「女による女のためのR-18文学賞」友近賞を受賞。近著に『どうしようもなくさみしい夜に』(新潮社)。

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