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旬の作家たちが揺れ動く30代の恋愛を描く、CLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜21時に公開します。第五回は朝比奈あすかさんの『出会い』。
これまでのあらすじ
日系老舗アパレル企業に務める美咲(みさき)は半年前の四月、念願叶って憧れブランドの「rencontre(ランコントル)」の店長に就任。以前は「モテ服」として一世を風靡していたブランドだが、近年は売り上げが芳しくない状態が続いていた。そんな折、美咲は店舗近くのカフェで気になる店員に出会う。名前もわからない彼に、徐々に惹かれていくが…。
「店長、なんだか最近、楽しそうですね」
石丸にそう言われたのはコートの販売が本格化する十一月、クロージングの後で売り上げデータを本部に転送している時だった。
「え。そう?」
「彼氏でもできたんですか」
不意打ちされて、
「いやまさかまさかまさか!」
美咲がつい大きな声で否定すると、
「店長分かりやすい。じゃ、好きな人ができたんですね」
と、いたずらな目でからかわれた。
「好きっていうか……」
「好きっていうか?」
興味津々で訊いてくる石丸は、高卒のフリーターで、まだ二十三歳の若さだ。作業中にちらっと見えた横腹にタトゥーを入れていてびっくりしたけれど、接客はうまく、根が真面目なので、この店舗に出入りする誰よりも頼りになる。過労で鬱気味になって異動してしまった前店長を石丸が支えていたというのも、別店舗と掛け持ちしている正社員から聞いた。自分がもう少し実績を上げて、本社に意見を出していけるようになったら、社員登用の道を切り開いてあげたい。そう思うくらいには信頼しているからか、彼女によく行くカフェの店員が気になっていることを話してしまった。
「え。まじですか。どこの店ですか」
青みがかったカラコンの丸い目を輝かせて訊ねる石丸に、
「それは言えない」
と必死に隠した。
「店にいるんですよね? だったら早く声かければいいじゃないですか。『お友達から始めてください!』って」
そう言う石丸の屈託のなさにジェネレーションギャップを感じ、
「あのね、普通に考えて、仕事中にそんなことしたら迷惑でしょう」
と言いながら、なんでわたしは職場で年下相手に恋バナしているんだろうと不思議になる。誰かに話さずにはいられないまでに、この思いが、心の容量から溢れかけている。
「えー、迷惑なわけないです。絶対喜びますよー」
朗らかに言われ、「はいはい」といなしながらも耳が熱い。
彼に声をかけるという発想など一ミリもなかった。一笑に付したつもりだった。だけど、帰りのバスの中で、「そうかー」と呟いている自分に気づく。彼が「喜ぶ」かどうかは別として、こちらが何らかのアクションを起こさない限り、何も始まらないのは事実。このままじゃ、一生店員と客のままだ。そう思って、また頭を振っている。
その日以降美咲は、ネットで買って窓辺に置いたエバーフレッシュのちいさな鉢に水をやりながら、毎晩のように、彼にどう話しかければいいのかを考えている。
店が終わる時間まで待ち伏せて、突然声をかける? まさか。想像しただけで頬が赤くなる。注文時に話しかける? 「友達になってください」って、いきなり? 無理。迷惑。絶対無理。ああ、どうしたらいいんだろう。
そうこうしているうちに、カレンダーがめくられていく。
駅ビルの中にクリスマスソングがかかり始め、店頭にツリーを飾ったと思ったら、年末へ向けて慌ただしく展示替え。初売りからのバーゲンセールでへとへとになって、疲労感を抱えたままバレンタインフェアも過ぎてゆく。石丸と共に一生懸命働いて、売り上げも前年をだいぶ超え、上向いてきた。
たまの休みの日にはカフェに行く。早上がりの日もカフェに行く。カウンターの中に彼がいると、自分の中の未来が動き出す気がし、呼吸が苦しくなる。
クリスマスのあたりからだろうか、ハンドバッグのポケットに、「友達になってもらえませんか」と書かれた小さな紙を、ずっとしのばせてきた。名前とSNSの連絡先だけ小さく書いたそれを、渡せるタイミングを狙い続けている。店内でほぼふたりきりのようなタイミングがあったら渡そうと決めていた。しかし、カウンターの中に店員は常に最低ふたり、多い時は四、五人いる。人気店だから、客も途切れない。いつか、いつか、と願い続けてカフェに行く。
ふいに奇跡が訪れたのは、彼とカフェで出会ってからちょうど一年後の、梅雨の合間の晴れ間だった。
早上がりできた平日で、店内はいつもより空いており、おまけになぜか彼以外の店員がいない。こんなことは初めてだった。
カウンターに立った美咲は顔を上げて、彼の目を見る。あ、やっぱ好き。どこがどうと言えないんだけど、好き。今だ。今しかない。
「ご注文はいかがいたしますか」
そう訊く彼と目が合う。茶味がかった綺麗な目。
今しかない!
バッグの中に手を入れればいい。これ読んでください、とひと言だけいって、紙を渡して帰ろうと決めていた。だから、座席に荷物を置かずに、ここに立っている。これ読んでください。そう言えばいいんだ。これ読んでください。これ読んでください。
「タピオカミルクティーで」
と、美咲は言う。
「承知しました。お会計はどうされますか」
「Suicaで」
彼は慣れた手つきで会計をする。そして、自分の番が来たらふるえるタイプの電子番号札を渡し、体を翻(ひるがえ)す。美咲のためのタピオカミルクティーを作るのだろう。どうしよう。どうしよう。そう思った時、もうひとりの店員がどこからともなく現れる。気づいたら、美咲の後ろに新しい客が並んでいる。
vol.5に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
朝比奈あすか
1976年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学卒業後、会社員を経て、2006年に群像新人文学賞受賞作の『憂鬱なハスビーン』(講談社)で作家デビュー。以降、働く女性や子ども同士の関係を題材にした小説をはじめ、数多くの作品を執筆。近書に『翼の翼』『いつか、あの博物館で。: アンドロイドと不気味の谷』『普通の子』など。
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