朝比奈あすか「出会い」 vol.3【web連載小説】

人生の踊り場にいる30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第五回は朝比奈あすかさんの『出会い』を連載。毎週水曜21時に公開します。

これまでのあらすじ

日系老舗アパレル企業に務める美咲(みさき)は半年前の四月、念願叶って憧れブランドの「rencontre(ランコントル)」の店長に就任。以前は「モテ服」として一世を風靡していたブランドだが、近年は売り上げが芳しくない状態が続いていた。そんな折、美咲は店舗近くのカフェで、気になる店員に出会い…。

 その日以来、美咲は彼のことを何度も、何度も思い出した。

 中肉中背の短髪。太めの眉。だけど、昔憧れた先輩にも、これまでの元カレたちにも、学生の頃に推していた韓国アイドルにも、似ていなかった。手のかたちや耳のかたち、あるいは瞳など、どこかのパーツに心を惹かれたわけでもないし、にこりともしてくれなかった。なのに、どうして思い出すのだろう。

 それから一週間後、ふたたび訪れた店内に、彼はいなかった。

 落胆した美咲がメニュー表に目を落とすと、オーツミルクティー、アーモンドミルクティー、ロイヤルミルクティー、ハニーミルクティー……と、そこにはたくさんのミルクティーがあった。前回は考えなしにコーヒーを頼んだけれど、ミルクティーで有名なお店なのかもしれない。美咲はじっくり迷ってから、タピオカミルクティーを注文してみた。

 そういえば、タピオカが一時期大ブームになっていたのは知っていた。美咲の実家の最寄り駅では、南北どちらの出口の前にもぴかぴかのタピオカ店ができた。オープン前はどんなものだろうと思っていたが、制服姿の女の子が長蛇の列を作っているのを見たとたん、なんとなく白けた気分になって、結局最後まで行かずじまいだった。

 しかしブームが去ってしばらくすると、タピオカ二店はそれぞれ立ち食い蕎麦屋とアウトドア専門店に変わり、ちょっと飲んでみようかなと思っても、もうかなわなかった。

 カフェのカウンターで差し出されたタピオカミルクティーは美味しかった。タピオカのつるりとした歯ざわりが気持ちよく、飲み込む時の感触も面白く、普通のミルクティーに比べて腹持ちがいい気がした。ブームだった頃、どうして避けていたんだろう。そして、こんなに美味しいのに、どうして二店舗とも、あっさり消えてしまったんだろう。そんなことを思いながら飲みほした。

 三度目に訪れたのは七月のなかばだった。

 外からガラス越しに、店内で彼が働いているのが分かった。数歩戻り、物陰で手鏡を取り出してメイクを確認した。こんなふうに緊張しながら自分の顔を確認するのは何年ぶりだろう。注文する時、目を見ることができなかった。だけど、座ってからは彼の姿をちらちらと何度も見た。ふと、自分の席のすぐそばの飾り棚に、小さな葉がそよそよとついた感じのよい観葉植物が置いてあるのに気づいた。そういえば、前回も同じ席に座り、なんとなく居心地がよかったので、視界には入っていたのかもしれない。美咲はその観葉植物を写真に撮り、画像検索をしてみた。「エバーフレッシュ」という綺麗な名前がついていた。

 七月、八月。美咲は、早上がりの日や休みの日には、必ずといってよいほどこのカフェを訪れるようになった。食材にかかる費用をセーブして、カフェでのお茶代にあてた。

 タピオカミルクティーを一杯頼んで、小一時間をのんびり過ごす。お気に入りは、コンセント付きのテーブル席。注文カウンターの中で働いている彼と、その向こうの入り口の窓を、同時に眺めることができるから。

 もし気に入りの席が空いていなければ、座り心地はあまりよくないのだけど、背もたれのない丸椅子の小さめの席で妥協する。その席からよく見える棚に、木製の小さな室温計が置いてあるのに気づく。一見時計風だが、室温と湿度を示している。なんだかそれがおしゃれに見えて、ネットで探したら同じものが見つかったので買ってみた。店内には、低い音量で穏やかな音楽がかかっている。美咲は音楽のジャンルに詳しくないが、ジャズかなと思う。耳に快く触れるけれど、後には残らない。そんな曲。

 彼のシフトは不定期で、いる日もあれば、いない日もある。

 いると脈拍が乱れ、呼吸が浅くなる。いないとむしろほっとし、ゆっくり飲み物を選べる。もう、どっちがいいのか分からないくらいだ。

 笑顔を絶やさないキャストのほうが多い中、彼は微笑むことさえしない。最初は不機嫌なのかと思ったが、いつものことだと分かってきた。どの客に対しても真顔で接客し、静かにやるべきことをやる。自分がいつも売り場で必要以上に愛想をふりまいて疲れてしまうせいか、彼の仏頂面での接客は新鮮だ。よいことだとは思えないのだが、なぜか魅力的に感じてしまう。

 カフェでアルバイトをしているということは、おそらく大学生だろう。高校生ということもありうる。二十七歳の自分が、そんな若い子を恋愛対象にするのはおこがましいから、「推し」ということにしようと決めた。「推し」なら、いいよね。陰からこっそり眺めるくらいなら、誰の迷惑にもならないだろうから。

 そういえば、いつもこの店で流れている音楽が心地よいので、動画サイトで「カフェ ジャズ」などと検索し、似た音楽を自分の部屋でも流すようになった。散らかっていた部屋を、少しずつ片付けている。

 九月、十月。彼が店内にいると分かった瞬間に心がふるえるこの感じ。どうしたらいいんだろうと美咲は思う。

 いまだに飲み物の注文以外に言葉をかわしたこともない。

「何になさいますか」「承知しました」といったマニュアル通りの言葉の、声色といい音量といい、なぜか心に響くのだ。そんな自分が解せなくて、思い出してはひとりで頭を振っている。二十七歳という年齢なりに元カレは数人いるけれど、姿を見ただけでわけもなくどきどきするこの感じは、小学校時代の初恋や、中学校で憧れの先輩を目で追って以来に思える。おかしい。おかしい。そう思ってまた頭を振る。傍から見たら挙動不審なこの様子こそ、恋する者の愚かしさだろう。

 年が明けたら二十八歳になる。友人の結婚式には二度招かれた。子どもが生まれた友達もいる。それなのに、自分はカフェで見かけたひとめぼれの相手に片思い中と、高校生みたいなことをやっている。名前も知らない相手に。

 ああ、せめて、名札がついていればいいのに。

 そう思って、店内が静かな時に耳を傾けている。キャストの誰かが彼の名を呼ぶかもしれないから。

 でも、そんなことは起こらない。客足が途絶えた時にキャストどうしが話している時はあるけれど、名前を呼びあったりはしない。

 いっそ今の仕事を辞めて、このカフェの求人募集に応募する?

 そんなことを思いつき、いやいやまさか、と苦笑する。苦笑した後で、それもアリかとちらっと考えている自分に気づき、赤面して、また頭を振っている。

vol.4に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

朝比奈あすか

1976年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学卒業後、会社員を経て、2006年に群像新人文学賞受賞作の『憂鬱なハスビーン』(講談社)で作家デビュー。以降、働く女性や子ども同士の関係を題材にした小説をはじめ、数多くの作品を執筆。近書に『翼の翼』『いつか、あの博物館で。: アンドロイドと不気味の谷』『普通の子』など。

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