恋に仕事に、惑う世代の30代。その揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第五回は朝比奈あすかさんの『出会い』。毎週水曜21時に公開します。
これまでのあらすじ
日系老舗アパレル企業に務める美咲(みさき)は半年前の四月、念願叶って憧れブランドの「rencontre(ランコントル)」の店長に就任する。二十年ほど前に【出会いの不思議、出会いの奇跡】というキャッチコピーで立ち上げられたこのブランドはどのアイテムも華やかな品があり、「モテ服」として一世を風靡したが…。
短大を卒業した美咲は、rencontreを取り扱う企業に販売職員として就職した。
それから八年後、郊外の駅ビルとはいえ「rencontre」店長に就任できたことは、以前の自分から見たら、理想の未来だろう。
だが、現実は厳しい。インバウンドの影響を受けにくい郊外の駅ビル店は、不景気の荒波に晒されっぱなしだ。コロナ禍を経てネット通販はさらに広まり、今や若い人はrencontreもどきの信じられないほど安い服を、海外からも簡単に入手できる。ブランドとしては、一定の品質と高級感を担保したいが、加工したキラキラ映像を即席で残したいだけの女の子たちにそんなものは求められていない。
コロナ禍が明けて他ブランドが徐々に息を吹き返してゆく中、rencontreの売り上げは芳しくないままだった。ターゲットが若い女性である割に、彼女たちが手を出しにくい価格帯にしているのだから、仕方がなかった。
前任者にNOが突きつけられた店舗に配属になったのが美咲だった。
憧れのブランドとはいえ、プレッシャーと不安を抱えながらの店長就任。古株のアルバイトの石丸(いしまる)セイナを軸に、別店舗と持ち回りでヘルプに来る社員に助けられているが、それだけではさすがに人手が足りなくて、新規でアルバイトを数人雇った。店内リニューアルに精を出し、商品の展示にも頭をひねる。
きらびやかな店構えに比べてバックヤードでの仕事はきつく、アルバイトの子たちは長続きしない。募集をかけてもなかなか集まらない。石丸に助けられて、なんとか春物セールをのりきったが、店長になってからの数か月で2キロ痩せた。
コンクルシオ・カフェを見つけたのは、そんな六月の夕方だった。
石丸の協力で久々に早上がりできることになったその日、美咲はさっさとバスに乗ってアパートに帰り、ぐちゃぐちゃのまま放置してある掛け布団をめくって倒れ込もうと決めていた。
それが、ビルを出たとたんに大きく気分が変わったのはなぜだろう。
梅雨の合間の晴天だった。日の長い時期特有の不思議とさっぱりした明るい夕方の空を見て、このまままっすぐ帰ってしまうのが惜しいような気がした。
疲れていたが、バスの停留所をひとつふたつ先まで歩いてみようと思いついた。こういう気の迷いが人生を大きく変えることがある。そういえば、少し先に広い公園があったなと思い出す。バスの車窓から眺めていたその公園は、歩いてみたらそう遠くなかった。こちらに越してきてからというもの、仕事のことで頭がいっぱいで、自分の中に町を知ろうという余裕がなかった。休みの日は洗濯をして、スーパーに行って、後は動画サイトやドラマを観ているだけで終わってしまう。初夏の公園の緑に、心がのびやかに広がるのは久しぶりのことだった。
公園を通り抜けると、反対側の小路沿いにカフェがあった。
コンクルシオ・カフェ
無機質のアルミの看板に、そっけないけどおしゃれなフォント。吸い込まれるように入ってみると、手前のカウンターで注文するスタイルの店だった。男性の店員が奥で飲み物を作っている。美咲は、すみません、とひと声かけてから、店内を眺めた。
手前の席で子連れママのグループと若い女の子ふたり連れがおしゃべりしているが、奥のほうにはいくつか空席がある。無垢の木の壁が音を吸い込むからか、反響音はなく、落ち着いて休めそうな、感じのいい店だと思った。
「お待たせしました」
と、声をかけられ、顔を上げた。
男性の店員と目が合った瞬間、胸に小さな風が吹き込んだ。
それは美咲にとって、初めての経験だった。頭が真っ白になり、喉の奥に綿菓子がつまったみたいで、すぐには言葉が発せない。美咲の返事を待つ間、彼はゆっくりまばたきをする。彼の目に自分が映っているのが分かり、脈が速くなる。
「コーヒーで」
なんとかそれだけ告げると、彼は無表情のまま、会計金額を告げた。交通系のカードで支払いを済ませ、コーヒーを淹れてもらい、その場を離れる。店を出る時までずっと、心のどこかが浮き立っていた。
vol.3に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
朝比奈あすか
1976年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学卒業後、会社員を経て、2006年に群像新人文学賞受賞作の『憂鬱なハスビーン』(講談社)で作家デビュー。以降、働く女性や子ども同士の関係を題材にした小説をはじめ、数多くの作品を執筆。近書に『翼の翼』『いつか、あの博物館で。: アンドロイドと不気味の谷』『普通の子』など。