30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第五回は朝比奈あすかさんの『出会い』。毎週水曜21時に公開します。
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「コンクルシオ・カフェ」は、駅ビルから大通りへ出て数分歩いた先の公園の先にあった。
都心部から電車に一時間以上揺られた先にあるこの街は、近隣県から東京への玄関口にもなっており、乗降客がめっぽう多い。そこに建つ駅ビルは、最上階の九階まで、すみずみが白い光に照らされて、常に明るく新しいもので満ちている。しかし、店のバックヤードに一歩入れば、小さな窓から近県との県境にもなっている山なみが、思いがけず間近に迫って見える。作業の合間にふと顔を上げて山の色の変化を目にするたびに、随分田舎まで来てしまったなと美咲(みさき)は小さなため息をついた。
下町で育った彼女にとっては、山の変化より、川面の揺れや橋を渡る人々、建設中のビル群のほうが、ずっと身近な存在であった。
美咲が、販売職の正社員として日系老舗アパレル企業に入社したのは七年前のことだ。
新卒採用時の面接で述べた念願叶って、半年前の四月、若い女性向けのファッションブランド「rencontre(ランコントル)」の店長の職に就いた。以来この町で人生で初めてのひとり暮らしをしながら働いている。
店長を任されるのは三店舗目だ。以前の二店は都心にあったが売り場面積がそれほど広くはなく、また、会社の主流ブランドではなかった。rencontreは若い世代向けのラインとして、かつて会社の基軸の一つであったし、何より美咲の憧れのブランドだ。
中高年女性向けの、やや落ちついたテイストのブランドを多く持つその企業が、妹版ともいうべき若い女性向けのrencontreを立ち上げたのは、美咲が小学校低学年の頃だったから、今から二十年ほど前になる。
今の若い子は略して「ランコ」などと呼ぶようだが、rencontreにはフランス語で「出会い」という、れっきとした意味があり、【出会いの不思議、出会いの奇跡】という、立ち上げ当初のキャッチコピーを、美咲はいまだ忘れていない。
あの頃、たまに旅行や帰省のためにターミナル駅で乗り継ぐ際、線路沿いの広告スペースに見とれた。
美しい女性たちが、可愛らしい服を着て、きらきらの笑顔を振りまいており、そこにはあのキャッチコピーがあった。幼い自分はまだピアスというものを知らず、耳にハートマークがあるな、と思ったのを覚えている。ややくすんだパステルカラーの生地を主流とし、目立たない程度に添えられたレースやリボンでさりげなく愛らしさを添えるrencontreのデザインは、パールやシルバーのアクセサリーとよく合った。多分あの広告が、美咲とrencontreの出会いだ。
【出会いの不思議、出会いの奇跡】は、ほどなくして【素敵なカレに声をかけられたのは、rencontreを着ていたから♡】というコピーに変わる。女子大学生や若い「OL」をメインターゲットにした雑誌で「私たちの合コン戦闘服、やっぱりrencontreだよね!」という特集が組まれたのは、美咲が小学校高学年の頃だ。当時、rencontreの服は「モテ♡」を作る代表格として流行していた。「合コン」が何かも知らなかった小学生の美咲も、rencontreを着ると男の子に好かれるんだろうと思い、なんだかくすぐったくなるような憧れをもった。
rencontreの試着室で初めて袖を通したのは高校三年生の時だった。レジ打ちのアルバイトで貯めたお金をつぎ込んで、定番のカットソーを買った。生地にひかえめな艶があり、着心地は軽やかで、まだ高校生だった美咲のデコルテをやわらかく光らせたそのカットソーを、グレージュとミルクティーカラーのどちらにするかでさんざん迷った。びっくりすることに、質のよさゆえか、Rencontreの美しさは十年以上たっても変わらない。だから美咲は、今でもたまにあの時買ったミルクティーカラーのカットソーを着ている。短大生になってからグレージュを追加購入し、のちにサーモンピンクも買った。
その頃には「モテ♡ブーム」は下火になっていたが、それでも短大のキャンパス内にはrencontreもどきの服を着る女の子が少なくなかった。
よく似た服でも美咲には、あれはrencontreの服だ、あれは別のブランドのものだ、という区別がだいたいついた。カタログを取り寄せているから、旧作も新作もたいてい頭に入っている。それに何より正規のrencontreには、まとう空気に独特の品があった。楚々(そそ)としていながらやわらかな華やぎがあって、着ている女の子を肌の内側から輝かせる。
少女の頃の憧れのまま、美咲はバイトに励んで、rencontreの服を少しずつ買い集めた。有名大学の男の子たちとの合コンや初デート、友達に誘われた読者モデルの撮影会、同窓会やクリスマスパーティ。大事な日には、必ずrencontreを着た。rencontreに合うメイクをし、rencontreに合うバッグや靴を選ぶ。珊瑚色のチークをはたき、細かいラメ入りの粉で目元を輝かせ、うすいピンクのグロスをぬれば、rencontreの似合う女の子がそこにいた。
もしかしたら、好きな服を輝かせる愛らしい姿を映したかったのは、男の子の瞳ではなく、鏡を見る自分自身の目だったのかもしれない。
vol.2に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
朝比奈あすか
1976年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。慶應義塾大学卒業後、会社員を経て、2006年に群像新人文学賞受賞作の『憂鬱なハスビーン』(講談社)で作家デビュー。以降、働く女性や子ども同士の関係を題材にした小説をはじめ、数多くの作品を執筆。近書に『翼の翼』『いつか、あの博物館で。: アンドロイドと不気味の谷』『普通の子』など。