”どうして彼は、私と付き合っていたことをあの子に喋ってしまったのだろう?”――30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第三回は砂村かいりさんの『オレンジシャドウの憂鬱』。
これまでのあらすじ
飲料メーカーに勤める稲葉(いなば)あずみは、年下の友人である礼奈(れな)に恋人ができたことを人づてに聞く。その相手は、かつて自分が交際していた夏目俊(なつめしゅん)だった。夏目とのことを話していなかったあずみは若干の気まずさを覚えるものの、いつもと変わらない礼奈の様子に安堵する。ところが後日、礼奈のSNSに夏目と思われる男性が頻繁に登場したり、自分のことを中傷するような投稿があるのを見てしまう。いてもたってもいられなくなり、久しぶりに夏目と会う約束をするが…。
再会するなり彼の目が懐かしそうに細められるのを、私は見逃さなかった。
低くてよく通る声も目の上で揺れる黒髪も相変わらずだった。初めて見るグラフチェックのシャツは以前の彼の好みとは少し違う気もするけれど、やや筋肉質なその体にしっくりと馴染んでいた。
かつて額をくっつけ合うようにして呑んだダイニングバーは、以前と変わらず私たちを迎え入れてくれた。タコライスにシュリンプサラダ、ラムの串焼き。気づけばふたりでよく食べたメニューばかりが卓に並んだ。「明日出かけるから」と夏目はほとんど呑まなかったけれど、ふたりの会話のテンポや温度感を取り戻すのにアルコールは必要ではなかった。
「すごいね。そっちの部長って結構厳しい人なんでしょ。あずみを評価してくれてたんだね」
あずみ。久しぶりに呼ばれた名前の響きに、心の奥がじんと熱くなった。
「そうみたい、ありがたいよね。どんな方向性がいいかなってひたすら考える毎日よ」
「いいなあ、俺も企画に関わってみてえよ。営業もまあまあ楽しいんだけどさ」
まるで付き合っていた頃と変わらない温度感。テンポのいい、大人の会話。言葉の端々ににじむ相手への敬意といたわり。
いっそのこと私たち、もう一度付き合ったほうがいいのでは──?
刹那、そんな考えが浮かんだ自分に驚く。彼は今、友達の恋人だというのに。
「明日の予定って、礼奈とデート?」
自然な流れで斬りこむことができた。
「あ……うん、まあ」
首に手をやり、喉ぼとけのあたりをぐりぐりいじりながら夏目が答える。照れているときの癖だ。胸がちりりと焦げるのを自覚する。目の前で動いているその手が、その唇が、あの子に触れているのだ。
「やっぱ本当だったんだ。びっくりしたよお、社内でも噂になってたし、礼奈のインスタにまで登場するんだもん」
変な粘り気を帯びないように気をつけながら、自然さを心がけて言った。アルコールによるごくわずかな酔いが舌の回転に力を与える。間接照明が作りだす淡い光の中、夏目はゆるく微笑みながらサラダの海老にフォークを刺している。
「いつのまに付き合ってたの? 礼奈ったら何も教えてくれないんだから」
「最近だよ、つい最近」
「交流会きっかけ?」
「そう。5月の終わり……や、6月に入ってからだったか? 俺が幹事やらされたときに、あの子が準備を手伝ってくれて」
大切なものについて語る口調だった。コンタクトレンズが目の中でずれたときのような小さな不快感が胸に芽生え、私は頬の内側をぎゅっと噛んだ。
「……8歳も下なんて、なかなか話合わないんじゃない?」
「別にそんなこともないかな。まあ化粧の話は俺にはわからんけど」
「うっかり私とのエピソードでも喋っちゃったの? なんか私、あの子にSNSであてこすり言われまくってるんだけど。LINEもずっと返ってこないし、意味がわからない」
淡々と答える彼に苛立ち、自分の言葉が尖るのを感じた。
「あー、彼女、きみのこと大好きだからねえ」
礼奈の投稿のことをどこまで把握しているのか、夏目はしゃくしゃくとサラダを咀嚼しながらのんびりと言う。砂糖水でも飲まされたように頬を緩めている。
「……なにそれ。邪悪な嫉妬見せられて困ってるんだけどこっちは」
「ちょ、邪悪とか言うなよ」
「いやだって、今までずいぶん甘えられてお世話してきたんだよ、私」
まずい。自覚しているのに、ブレーキがかけられない。自分がどんどん醜悪になってゆくのがわかる。失礼で恩知らずなあの子の評価を下げてやりたくてたまらない。
「一緒に北海道行ったときだって希望のスポットを挙げるだけで、私がレンタカーの手配から運転まで全部したんだよ。もちろん宿の予約だって。今回だって私が何か迷惑かけたわけでもないのに、どうしてあんな陰険な嫌がらせされなきゃいけないわけ?」
「まあ、たしかにきみと違って器用じゃないし未熟かもしれないね。なんか迷惑かけちゃってすまんね。よく言っとくから」
──なにそれ。なにそれ。カクテルグラスを持つ指が震えた。
あくまで友人としてのふるまいを崩さず、とろんとした目で愛おしげに彼女を語る。そんな彼の姿を目の当たりにして、ほろ酔いがいっぺんに醒めたような気がした。
そっか、あの子と同レベルで恋愛できちゃう男なんだ。
あれほど幼稚なふるまいをするあの子でも、魅力的に感じちゃうんだ。
あの頃の私たちは、もう世界のどこにもいないんだ。
瞼がぼうっと熱くなり、化粧ポーチを持ってトイレに向かった。鏡の前に立ち、オレンジのアイシャドウを塗りつけた自分と目を合わせる。それから、おもむろに瞼をごしごしと擦った。
人気のない休憩所で八木橋(やぎはし)くんとばったり会ったのはラッキーだった。
「あ、稲葉さん」
「ああ、ちょうどよかった。今週末とかって暇?」
八木橋くんは目にかすかな驚きを浮かべて私を見た。その顔に、親しげな微笑みを返す。
見る目がない男に、たとえ一瞬でもふりまわされそうになったのは私。礼奈と違って思慮深い自分の魅力を再認識してくれるのではないかと、ずれた見立てをしていたのも私。いつのまに過去にとらわれていたのだろう。無自覚とはしみじみと怖ろしい。
もう、次の新しい扉を開ける時が来ているのだ。いいかげん八木橋くんの好意に応えることを自分に許したっていい。
「今週っすか……?」
「うん、ずっと御飯行こうって言ってたじゃない。今まで忙しくて行けなくてごめんね」
「いいっすね……けど、魚住(うおずみ)さんが」
は?
突然出てきた名前に、笑みと思考がぱりりと固まった。
「魚住さんが、なに?」
「あれっ、言ってませんでしたっけ。俺ら先週から付き合ってるんですよ」
照れ笑いを浮かべる八木橋くんにおざなりな祝福の言葉をかけ、休憩所を出た。自販機で買った缶コーヒーをリレーのバトンみたいに振りながら、自分の席へダッシュする。ちっともさばさばなんてしていない、未熟で幼稚な自分を猛烈に恥じ入りながら。
扉がいつまでも自分のために開かれているなんて、とんだ勘違いだ。私は私のやるべきことを正しく見極め、真摯に向き合うしかない。資料で散らかった自分のデスクの前にものすごい勢いで座ると、「おお稲葉、気合入ってんなあ」と部長席から声が飛んできた。
ハンドミラーを手にとり、33歳の疲れぎみの顔を映す。買ったばかりの明るいミントグリーンのアイシャドウは、私らしくないかもしれないし、きっと似合っていない。礼奈が見たら、新たなネタを得たとばかりに嗤うだろう。
けれど、「自分らしさ」という概念は時に自分を縛る鎖になる。パーソナルカラーなんて、日焼けしたり髪を染めたりカラーコンタクトを入れたりするだけで簡単に変わるのだ。そんな泡沫の自分らしさは昨日、サマーオレンジのアイシャドウと一緒に燃えないごみに捨てた。LINE友達のアカウントをふたつ消去したその流れで。
ブラインドの隙間から差しこむ陽射しの中でPCに向かい、今日のタスクを進めてゆく。集中してキーボードを叩いていると、打楽器を演奏しているような気がしてくる。オフィスのどこかから、誰かのコーヒーの香りが漂ってくる。
圧倒的な夏がもう、窓ガラスのすぐ外まで押し寄せている。
Fin.
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
砂村かいり(すなむらかいり)
神奈川県在住。『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』にて 第5回カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞を2作同時受賞し作家デビュー。最新刊『マリアージュ・ブラン』を2024年10月発売予定。