砂村かいり「オレンジシャドウの憂鬱」 vol.5【web連載小説】

人生の踊り場にいる30代の心を

人生の踊り場にいる30代の心を描く、CLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜、全6回でお届けします。第三回は砂村かいりさんの『オレンジシャドウの憂鬱』。

”どうして彼は、私と付き合っていたことをあの子に喋ってしまったのだろう?”揺れ動く主人公の感情の行く末は…。

これまでのあらすじ

飲料メーカーに勤める稲葉(いなば)あずみは、年下の友人である礼奈(れな)に恋人ができたことを人づてに聞く。その相手は、かつて自分が交際していた夏目俊(なつめしゅん)だった。夏目とのことを話していなかったあずみは若干の気まずさを覚えるものの、いつもと変わらない礼奈の様子に安堵する。ところが後日、礼奈のInstagramにメイクをされた夏目と思われる男性が登場。さらに別のSNSで、礼奈が自分のことを中傷するような投稿をしているのを見てしまい…。

 気づいてしまったら、もう元には戻れない。
 礼奈のSNSを巡回するという後ろ暗い行為が、新しい習慣として自分の生活サイクルに入りこんでしまった。
 オンとオフのメリハリを誰より重視していたはずなのに、こうしてバスルームにスマホを持ちこんで湯船に浸かりながら画面に指を滑らせている。ここぞというときに使おうと思っていたミルクの香りのバスボムを雑に投げこんで、白濁した湯の中で苛立ちを募らせている。
 Instagramのコスメレビューには、夏目の存在を利用したものの割合がどんどん増えている。「彼がキスしたくなる! ぷるぷるリップ」だの「つけると彼がムラムラして困っちゃう香水❤」だのといったレビューには、夏目と礼奈が睦み合う姿をうっかり想像させられてしまい、言いようのない居心地の悪さを覚える。こういう反応さえも彼女の狙いのうちなのだろうか。
 そしてテキストベースのほうの投稿には、名指しのない苦言が連なってゆく。
『店探しって楽しいけど地味に疲れる。年下にやらせないでほしいものです』
『異性の後輩からのリップサービスを真に受けちゃうのってイタすぎる……』
これらが自分のことだとわからないほど、私は鈍くない。というより、彼女はむしろ私に読ませたいのだろう。私の目に触れることを想定し、ちくりと刺さる言葉を選んで、せっせと書きこんでいるのだろう。
 そう、礼奈は知ってしまったのだ。自分の恋人が、かつて私と付き合っていたことを。そうでなければ、LINEの無視やSNSでのあてこすり発言の説明がつかない。
 私と同じように、彼女もつぶやきの投稿からはしばらく遠ざかっていた。再開している日付を見ると、ちょうど新宿ランチの翌日になっている。
 ということはやっぱりあの夜、礼奈は夏目とデートして情報を得たのだ。「さっきまであずみさんとランチしてたんですよ。夏目さん、あずみさんのこと知ってますよね?」「ああ、知ってるもなにも付き合ってたよ」──そんなやりとりをする様子が目に浮かぶ。
 いや、そんなにあっさり言ってしまうだろうか。それともデートのあと夜を夏目の部屋で過ごした礼奈が、彼が寝言で私の名を呼ぶのを聞いてしまった、とか? 想像は積乱雲のごとくぶくぶくと膨らんでゆき、私は頭を抱える。
 それにしたって、彼女の中のいったいどこにこれほどの悪意が眠っていたのだろうか。それを思うたび、肌がひんやりするほどうすら寒い気分になる。
 知られたら良い感情を持ってはもらえないだろうなと、ある程度は覚悟していた。彼のことが好きならば、過去の相手に嫉妬心が湧くのはまあ、当然と言えるだろう。
 他方、私とは何ら変わらず付き合ってくれるだろうという希望的観測もあった。複雑な思いを抱えつつも、割り切ってうまくやっていくくらいできるはず。大人なら。社会人なら。まさかこんな幼稚な嫉妬をむきだしにしてくるなんて、ひどく裏切られた気分だ。そもそも彼が浮気をしたわけでも、私が略奪をしたわけでもないのに、なんて醜悪で不毛なふるまいだろう。
 それに。
 それに私たち、夏目と知り合う前から仲良しだったじゃない。コスメの福袋を買って、中身を交換したりしたじゃない。旅行だって一緒に行ったじゃない。
 ──ああ。濁った溜息が止まらない。気づけば冷め始めている湯船の中で、体も心もちっとも解きほぐれていない。
 どうして夏目は、私とのことをあの子に喋ってしまったのだろう。それとも寝言で呼んだ? あるいは一緒に撮った写真とか、過去のLINEでも見られた?
 どうして。どうして。
 どうして。
 いや、こんなに他人に振り回されるなんて私らしくなさすぎる。すっかりふやけた指先で自分の頬をぱんと叩くと、白い湯がぱしゃっと跳ねた。
 悩む時間がもったいない。礼奈のSNSを閉じて、LINEを開く。彼とのトークルームを開くには、履歴をずいぶん下のほうまで遡らねばならなかった。
『やっほー。元気にしてる?』
 なんの芸もない書き出しに、我ながら苦笑する。
『そちらの新商品、なかなかおいしくてよく飲んでるよ。実はこっちもついにコンペに参加できることになって、武者震いしてるとこ! もし暇だったら吞みながら話せたりする?』
 ざっと打ちこんで、読み返しもせずに送信ボタンを押してしまう。こういうとき、自分に考える時間を与えすぎないほうがいいと知っていた。
 スマホがぴこんと鳴ったのは、ドライヤーで髪を乾かしているときだった。
『どーも。普通に元気です。今週中なら水曜と土曜が空いてます』

 迷いに迷って、結局自分の定番コーディネートにした。
 キャメルのシャツワンピースのボタンを全部開けて、白いレースのシャツの上にカーディガンのように羽織る。ボトムスはシンプルな黒いパンツ。甘すぎず辛すぎず。いつか八木橋(やぎはし)くんに言われた言葉が蘇る。うん、気張りすぎない私らしいコーディネートになった。
 迷いに迷っている時点で気張っているのではないかという疑問に蓋をして、ドレッサーの前に座る。化粧下地を肌に塗り伸ばしながら時計を見る。大丈夫、家を出るまでにはまだ余裕がある。
 土曜日、広尾のダイニングバーに19時。約束はあっさり決まった。彼女がいるからと断られることもなかった。
 案件で提供された美容液入りリキッドファンデーションを丁寧に塗りこむと、肌はみずみずしく輝いた。プレストパウダーをはたく前にチークをのせる。他のポイントメイクを邪魔しない、落ち着いたベージュブラウン。ファンデーションとパウダーでチークをサンドイッチすることで、内側からにじむような自然な仕上がりになるのだ。
 新商品のムースタイプのチークは礼奈が熱心にPRしていたものだと思いだし、苦笑が漏れた。今の私には余裕がある。夏目と会ったら仕事の話題から入って、礼奈との現状に話を持っていこう。醜悪にならないように、ごく自然に。頭の中でシミュレーションしながらメイクを仕上げてゆく。アイシャドウを選ぼうとして、指が止まった。
 自分のパーソナルカラーを、私は礼奈ほど意識していない。それでもSNSにあれほど書かれたら、もうピンクを使う気にはなれない。レッド系もパープル系も、今の気分とは違う気がする。
 礼奈にもらったサマーオレンジの単色アイシャドウが、コスメボックスの中で存在を主張している。ええい。彼女の一部を連れてゆくような気持ちで、指先にアイシャドウをとり両まぶたに塗りつけた。リップライナーで唇の輪郭を丁寧にとり、オレンジのリップティントを塗りこむ。仕上げに、ガラス玉のような透明グロスを中央にちょっとのせた。
 雨が上がったばかりの夕空の下へ身を躍らせるように、玄関を出た。デートでもないのに浮き立つこの心はなんだろう。体温とほとんど変わらない気温の夕闇の中、軽快にヒールを鳴らして最寄駅へと急いだ。

vol.6に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

砂村かいり(すなむらかいり)

神奈川県在住。『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』にて 第5回カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞を2作同時受賞し作家デビュー。最新刊『マリアージュ・ブラン』を2024年10月発売予定。

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