砂村かいり「オレンジシャドウの憂鬱」 vol.4【web連載小説】

”どうして彼は、私と付き合って

”どうして彼は、私と付き合っていたことをあの子に喋ってしまったのだろう?”――人生の踊り場で惑う30代の心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜、全6回でお届けします。

第三回は砂村かいりさんの『オレンジシャドウの憂鬱』

これまでのあらすじ

飲料メーカーに勤める稲葉(いなば)あずみは、年下の友人である礼奈(れな)に恋人ができたことを人づてに聞く。その相手は、かつて自分が交際していた夏目俊(なつめしゅん)だった。夏目とのことを礼奈に話していなかったため若干の気まずさを覚えるものの、その後ランチで会った礼奈はいつもと変わらない様子だった。安堵するあずみだったが、後日、礼奈のInstagramにメイクをされた夏目と思われる男性が登場して…。

 へえ、やっぱり本当だったんだ。息を吞んだまま、私はかつての恋人のローズピンクに塗られた唇に目を凝らす。
 仲良くやってるんじゃん。コスメレビューにまで登場させるなんて。夏目もよく引き受けたな、こんなこと。
 画像は全部で4枚連なっていた。おすすめのコスメが男性の顔面でも力を発揮することを、少しずつアングルを変えて撮った写真と文字で熱心にアピールしている。
 ああ夏目だ、と思った。唇の下に皺が寄っているのは、自分らしくない言動を求められたときの癖だ。その実、けっして不機嫌というわけでもないのだ。喉の奥に、懐かしさが飴のようにじわりと甘くにじんだ。
 レビュー本文に目を走らせる。使用したコスメの魅力をおおげさな言葉で褒めたたえ、最後はただの惚気で締めていた。
『こんなことに付き合ってくれる彼氏様、やっぱり最高&大好き! 永遠に一緒❤』
 尻のあたりがむずむずした。かわいらしい、微笑ましいと素直に思えなかったのはなぜだろう。彼氏を登場させていくスタイルにしたなら、応援すればいいだけなのに。礼奈の惚気という世にも珍しいものがSNSで公然と開陳されていることへの、とてつもない違和感だろうか。
 スマホをデスクの隅に押しやり、新商品のアイディア出しを再開する。総務部から問い合わせの社内メールが入ってきて、そちらにも対応する。
 文章を打ちこみながら、また少しだけ考える。私はやっぱり、公私のメリハリがはっきりついているほうが好きなのだ。それを他人にまで期待するのは、間違っているかもしれないけれど。

 梅雨の時期からクリスマス前までの半年間。私と夏目の付き合いはそれだけだった。
 二十代の恋愛みたいに情熱を燃やし尽くすような激しさはなかったけれど、自分の日常は誰かによって輝くものであると教えてくれる存在だった。彼にとってもそうだったと思いたい。
「年末、俺の実家に来る?」
 彼のそのひとことが別れの原因になるなんて、思いもしなかった。
 ふたりが気に入っている新大久保の韓国料理店でチーズタッカルビを食べていたら、だしぬけに夏目がそう言ったのだ。
 彼の実家は大分の温泉地にほど近い場所にあると聞いていた。
 親に引き合わされるなんて、なんだかプロポーズみたい。みたいっていうか、本当にプロポーズなんじゃないだろうか。えっ、もしそうなら、それなりにちゃんと整えてほしいんだけど、場所とかシチュエーションとか言葉とか。心の中でさまざまな感情がいっぺんに混ざりあった。
「えっと……え、まだちょっと早いんじゃない? そういうのって」
 考えすぎて、おかしなリアクションになった。打算的な感情を見抜かれるのが怖くて、マッコリをがぶ呑みした。
「そっか、あずみはそんな感じなんだ」
 普段そこまで表情を大きく変えることのない夏目の顔に深い悲しみがにじんでいるのを見て、私はびっくりした。
 でも、心の中の何かがフォローの言葉を発するのを邪魔した。いつも自分の気持ちを簡潔明瞭に表す彼だから、彼自身で言葉を継ぐのだろうと期待して待った。しかしそれは、真夏に積雪を期待するようなものだった。
 結局、一緒に帰省するどころかクリスマスにデートすることすらなく連絡は途絶え、ふたりの日々はあっさり終焉した。破りとられた手帳の1ページが風にさらわれるように。

 エントランスにある宅配ボックスを覗くと、PR案件の商品の包みが押しこまれていた。新商品を真っ先に試せる喜びと、またちまちまとレビューをこしらえなければならないことへの徒労感を同時に覚えながら、包みと通勤鞄を抱えて階段を上る。
 どんなに疲れていても、自宅に帰り着くとほっとする。ひとり暮らしの小さな部屋は、いつでもどんな私でも無条件に受け入れてくれる。歴代の恋人たちが出入りした、1DKのアパート。
 実家は都内にあるのだが、大崎にあるオフィスまで通勤するには3度も乗り換えが必要なため、便のよい町に賃貸マンションを借りて暮らしている。ひとりで寝起きして食事して掃除洗濯して、老いゆく両親に仕送りもして。親元でぬくぬくしている礼奈とは違う。
 ずいぶん心がささくれていることを自覚しながら、コンタクトレンズを外して眼鏡をかける。鈍い動作で部屋着に着替え、ささやかな夕餉を調える。残業だったわけではないけれどどうにも料理をする気が起こらず、コンビニに寄ってとろろ蕎麦を買ってきた。せめて少しでも贅沢な気分で食べようと、海苔や薬味をたっぷり追加する。
 空になった蕎麦の容器を流しでゆすいでいると、また胸がざわざわし始めた。
 私と夏目が付き合っていたことを知っていようがいまいが、あんなにラブラブな彼氏ができた時点で報告してくれたっていいのに。あんなに手のこんだ画像を作っている暇があったら、LINEのひとつも返してくれたらいいのに。
 くだらないことにとらわれていると気づいて、空き容器をプラスチックごみ用の白いペールにねじこんだ。収集日を前にごみがあふれかえり、蓋が中身につっかえてスイングしない。いらいらしながら腕を差し入れ、力をこめてごみを奥までぎゅうぎゅう押しこむ。
 もしもコンペで私の案が通ったら、こんなことに感情を揺らしている暇などないのだ。私をリーダーに据えたプロジェクトチームが編成され、各部署と連携しながら取引先との折衝が始まる。会議に会議を重ね、予算や納期と闘いながら、早出や残業に明け暮れるのだ。自分が発案した新商品を、確実にこの世に送りだすために。
 ──わかっているのに、ベッドに身を横たえた私の手は結局またスマホに伸びてしまう。私とのLINEメッセージを既読スルーしたままの礼奈は、Instagramにまた新しいレビュー投稿を増やしている。
 そうだ。
 しばらく触っていなかった、テキストベースのSNSを開く。長く続けてきたのに、会社のトップが変わってサービス名がアルファベット1文字という無個性なものになってしまってから、ずいぶん離れてしまっていた。
 コスメアカウントとは切り分けた、ごく親しい人たちとしか繋がっていないプライベート用のアカウントを立ち上げる。以前よりだいぶ閑散としたタイムラインに、「れにゃ☆」こと礼奈のつぶやきが連投されている。
『イエベのくせに青みピンクとか……似合わなすぎて草』
『いくら暑いからって平気でノースリーブを着るような三十代にはなりたくないものですね』
 硬質な異物が自分の心に打ちこまれる、鈍い音を聞いたような気がした。

vol.5に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

砂村かいり(すなむらかいり)

神奈川県在住。『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』にて 第5回カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞を2作同時受賞し作家デビュー。最新刊『マリアージュ・ブラン』を2024年10月発売予定。

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