毎週水曜、全6回でお届けするCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第三回は砂村かいりさんの『オレンジシャドウの憂鬱』。
”どうして彼は、私と付き合っていたことをあの子に喋ってしまったのだろう?”――人生の踊り場で惑う30代の心を、旬の作家が描きます。
これまでのあらすじ
飲料メーカーに勤める稲葉(いなば)あずみは、年下の友人である礼奈(れな)に恋人ができたことを人づてに聞く。その相手は、かつて自分が交際していた夏目俊(なつめしゅん)だった。夏目とのことを礼奈に話していなかったため若干の気まずさを覚えるものの、いつもと変わらない礼奈からのLINEに安堵するが…。
呑みに行こうと言い合っていたはずが、ランチ会になった。
西新宿のビルに入っているフレンチレストランは礼奈がリストアップしてきた候補の中にあり、私が選んで予約を入れた。都庁を含むビル群が見渡せる窓際の席に通され、ガラスを通過してくる紫外線が気になって、ノースリーブのシャツから伸びる腕にUVカットクリームを塗り足した。
「インスタで見てずっと食べたかったんですよ」
もち豚のローストポークをご機嫌に切り分けてゆく礼奈は、相変わらず愛らしい。小麦色の肌の私と違って抜けるように肌が白く、肩を覆う髪はいつも丁寧にセットされている。全体的に控えめだがパーツが整っているせいで化粧映えする彼女の顔立ちは、どのパーツも大ぶりで引き算メイクばかりしている私には少し羨ましい。
礼奈は初めて行く場所への効率的なアクセスを考えたり、予約を入れたりするのが苦手なタイプだ。その代わり、流行りものや新商品についての情報収集力やアンテナの強度には目を見張るものがある。
「インスタと言えば、礼奈の紹介してたやつバズってたよね」
「あ、Lampsi(ランプシ)の新作チークですか?」
「そうそう。あれって『案件』だよね?」
たずねると、メイクで人工的に作りだされた礼奈の涙袋が、頬と一緒にぷっくりと持ち上がった。
礼奈と仲良くなったのも、会社同士の交流会がきっかけだった。夏目と付き合うよりもっと前、彼女がまだ新卒だったから、あれは一昨年の春だ。魚住(うおずみ)さんが企画した女子会にやってきた彼女とコスメ好き同士で意気投合し、夏休みには一緒に北海道へ旅行までする仲になっていた。
化粧品や美容についてのみ発信するための、いわゆるコスメアカウントを作ろうと声掛けしたのは私だった。ただ買ってただ消費して終わるには、私たちのコスメ愛はマニアすぎるという妙な自負があったから。
会社で培ったプレゼン力や編集技術を活かして作ったアイキャッチ画像にやや大げさな惹句を添えて、SNSでおすすめの商品についてレビューを発信した。気づけば多くのコスメユーザーにフォローされ、化粧品関係の懸賞にばんばん当たるようになり、ついにはメーカーから直接商品の提供を受けてレビューを投稿するPR案件も発生し始めた。一緒に出かけた渋谷のコスメイベントも、特定のブランドのブースをレビューしてほしいという依頼を受けて招待されたものだった。
承認欲求も物理的な役得もある程度の水準まで満たされると、私は当初ほど熱心なレビュワーではなくなっていった。気が乗らなければ1週間以上更新をさぼってしまうことも増えた。一方、礼奈はこつこつと隔日更新を続け、インスタライブでメイク配信なんかを行うようにもなり、今やフォロワー2万人超えのインフルエンサーだ。
「あずみさん、今日はピンクメイクなんですね」
「うん。礼奈の自撮り見たら、なんかいいなと思って。服も久しぶりにピンク系着たし」
「あずみさんはイエベ秋だけど、お顔が華やかだからなんでも似合いますね」
「礼奈にもらったサマーオレンジのシャドウもめちゃくちゃ使ってるよ。あ、うちの八木橋(やぎはし)くんって礼奈知ってるっけ? あの子にも褒められちゃった、似合いますねって」
話が弾むほどに、それぞれのポークソテーが小さくなってゆく。ただ、付け合わせのクレソンやポテトまですっかりなくなる頃になっても、話題が恋愛方面に及ぶことはなかった。
ランチを終えて階下にあるコスメフロアを一緒に見て回ったあと、礼奈は「そろそろ」と別れを告げて東口のほうへ歩いていった。
夏目と会うのかな。思ったけれど、訊けなかった。私たちの友情に生々しいものを持ちこむのはためらわれた。
よく手入れされた礼奈の髪の艶めきが新宿の雑踏に紛れてゆくのを見送りながら、言葉にできない喪失感を味わっていた。
あとから思えば、引き留めてでも恋愛話に斬りこんでおいたほうがよかったのかもしれない。
そのときを最後に、礼奈の様子がおかしくなっていったのだから。
再来年の発売を見据えた新商品のコンペに、出てみないか。
部長に声をかけられたとき、私は間髪を容れずに「そのつもりです」と即答した。
「おお、頼もしいなあ稲葉は」
「新製品の開発がしたくて異動願を出したんですから当然です」
どんなコンペも全員に参加資格はあるが、実際に部内全員がプレゼンしたら収まりがつかない。管理職から見込まれて声がけをされた者のみが出るのが不文律となっていることは、異動してくる前から先輩に聞いて知っていた。入社11年目、とうとうめぐってきたチャンスに、全身の細胞が打ち震える。他の人たちの補佐や雑用に走り回り、地味な仕事も率先してこなしてきた甲斐があった。
微糖ブラックとカフェオレの2種展開を想定。主なターゲット層は二十代から三十代の若い消費者。店頭や自販機でつい手が伸びるようなデザイン性の高さで他社と差別化を図る、新世代のコーヒー飲料。コンペの募集概要にはそんなふうに記載されている。
つまり、豆のおいしさとかフェアトレードがどうのじゃなくて、パッケージ重視ってわけね。ああ、腕が鳴る。思考が活発に動き始めた。パソコンのデスクトップにテキストファイルを作り、思いつくままにキーボードを叩く。その指先が踊るように軽やかなことを自覚して、小さな笑いが漏れる。
ラベルデザインを人気のイラストレーターとコラボするのがいいかも。なんだかんだ言って手描き風イラストの人気は衰えないからな。それともいっそ色柄を廃した思いっきり無機質なラベルにして、想像力に働きかけるとか。
コンペに不参加の同僚たちとは、この興奮を共有できない。こんな日に限って八木橋からの甘いメールもなく、休憩所でも姿を見かけない。
そうだ、礼奈に報せよう。スマホのディスプレイをONにしたとき、はっとした。あの新宿ランチの日以降、いっさい連絡を取り合っていないことに思い至って。
「えっ」
LINEを開き、思わず声が漏れた。「今日はありがとう! 夜の予定も楽しんだかな? またおすすめのお店教えてね~♪」という私のメッセージがタイムラインの末尾に残されたままだった。
礼奈に悪く思われていないことを確認してすっかり安心し、返信がないことなど気にも留めずに過ごしてしまっていた。
何かメッセージを打ちこもうとして、代わりに彼女のInstagramを覗いた。派手なフォントの惹句やスタンプで飾りたてられたコスメの写真が連綿と並ぶ。私と会ってからの2週間、投稿は隔日ペースで続けられている。通常営業だ。
「元気なら返信してくれてもいいじゃん」
またひとりごとが漏れ、隣の席の同僚がけげんな顔を向けてくる。いいわけ代わりに咳払いをしたとき、投稿のひとつに目が留まった。
『彼氏にメイクしてみた!』
心臓が大きくひとつ、どくんと鳴った。
目元はスタンプで隠されているものの、すぐにわかった。つやつやのリキッドファンデーションやローズ系のリップティントを塗られた横顔は、夏目峻のものだった。
vol.4に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
砂村かいり(すなむらかいり)
神奈川県在住。『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』にて 第5回カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞を2作同時受賞し作家デビュー。最新刊『マリアージュ・ブラン』を2024年10月発売予定。