”どうして彼は、私と付き合っていたことをあの子に喋ってしまったのだろう?”――30代の揺れ動く心を、旬の作家たちが描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。第三回は砂村かいりさんの『オレンジシャドウの憂鬱』。毎週水曜、全6回でお届けします。
これまでのあらすじ
飲料メーカーに勤める稲葉(いなば)あずみは、年下の友人である礼奈(れな)に恋人ができたことを人づてに聞く。その相手は、かつて自分が交際していた夏目俊(なつめしゅん)だった。夏目と交際していたことを礼奈に話していなかったものの、頻繁に遊ぶ仲だった彼女から何も言われていないことに一抹の不安を覚え、連絡をとってみるが…。
礼奈から返信が届いたとき、心の底からほっとしている自分がいた。
『楽しかったですよね~! あずみさんに選んでもらったピンクのシャドウが気に入りすぎてヘビロテ中です❤ 締日を過ぎてからでもよければ呑み行きましょー!』
私が送った翌日の昼に届いたメッセージには、自撮り写真も添えられていた。彼女のパーソナルカラーに合わせてアイシャドウもチークもピンク系で統一した顔を、やや斜めから撮ったもの。
なあんだ、いつもの礼奈だ。私と夏目の関係に気づいてなにかしらネガティブな感情でも抱いてしまったかと気を揉んでいたけれど、完全なる思い過ごしだったようだ。
どうせならこのまま、恋愛の話題には触れないでいよう。魚住(うおずみ)さんの話が本当なら礼奈と夏目は現在恋人同士で、そのことをもし彼女に確認するとしたら、私たちの過去について話さないのは不自然だ。
安心してスマホをサコッシュにしまいこみ、せっかく休憩室に来たのにまだ何も飲んでいないことに気づく。
各階にある休憩室には、自社や系列会社のペットボトル飲料や缶飲料ばかりが詰まった自動販売機が、壁にそってずらりと並んでいる。10人ほどが着席できる大きなテーブルがふたつ設置されていて、背を丸めてコーヒーを飲みながらスマホをいじる社員たちがぽつぽつと席を埋めている。
窓のないスペースで人工的な光を放ち続ける自販機のうちの1台の前に立ち、社員証として首からぶら下げているIDカードをセンサーにあてた。ピッと軽快な音がして、各商品のボタンが点灯する。微糖コーヒーのボタンを押すと、がこんと鈍い落下音がした。購入代金は月々の給与から一括で差し引いてもらえるシステムだ。
私の勤めるP社はコーヒー飲料を製造販売しており、関東圏に何店舗かカフェも展開している。夏目のところのT社は乳飲料で、礼奈のK社はお茶やミネラルウォーターがメインだ。親会社を同じくする三社は競合関係にはなく、管理職の意向もあってとても距離が近い。
でも、私はもう交流会へは行かない。幹事を打診されたこともあるけれど、角が立たないようにやんわり断った。広報部と生産管理部を経て、今年度から念願の企画開発部に配属されたのだ。やりたいこともやるべきことも無限にある。息抜きも人脈作りも大切だけれど、今は仕事のことだけ考えていたい。またうっかり恋などしてしまわないように。
冷たいコーヒーを勢いよく流しこむと、胃がしゃっきりした。よし、リフレッシュ完了。立ち上がろうとしたとき、真向いの席から浴びせられている視線に気づいた。
「ぎゃっ」
「ちょっと、ゾンビに遭ったみたいなリアクションしないでくださいよお」
大げさに眉をひそめて芝居がかった声を出すのは、四つ後輩の八木橋(やぎはし)くんだ。
「いつからいたの?」
「最初からいましたよ。なんかすっごい集中してスマホ見てるから声かけづらくて」
営業部の彼との会話にどこか甘い戯れのような響きがあるのは、以前から彼に好意を寄せられているからだ。
昨年度まで、私たちはふたりとも生産管理部にいた。配属当初、どこか学生っぽさの抜けていなかった彼をあれこれフォローしたのが私だった。その恩義の延長線上なのか、社内メールにまで「御飯行きましょうよ~」などと公私のラインを越えた親しげな文章を書き連ねてくる。面倒くささを覚えつつも、弟のようにかわいい彼を邪険にはできず、顔を合わせれば軽口を叩くくらいのことはする。恋愛感情は持てないし、私は今それどころではないけれど。
「稲葉さん、その色いいですね。そのオレンジ」
カフェオレのペットボトルを持っていないほうの手で、八木橋くんは私の顔を指した。
「あ、アイシャドウ?」
「はい。甘くもなく辛くもなく、稲葉さんにすごく似合ってる」
最近よくつけているオレンジ色のアイシャドウは、5月の誕生日に礼奈がプレゼントしてくれたものだ。
注目のメイクアップアーティストがプロデュースしたブランド「Lampsi(ランプシ)」で特に人気のアイシャドウ。「サマーオレンジ」と名づけられたその新色は数量限定生産で、人気すぎて夏が来る前に完売となった。みかん色と言っていいくらいジューシーで健康的なオレンジのパウダーアイシャドウの中で、大きめのラメや微細パールがちらちらと輝く。パーソナルカラーを重視する礼奈が選んだだけあって、私の肌にぴたりと合う色味だった。
「ありがとう。そういう細かいところに気づいて褒めるのって、女性にモテるテクだね」
「やだなあ、テクとかじゃないし、俺には稲葉さんだけですよお。わかってるくせに」
冗談とも本気ともつかぬ軽妙な言葉、さして意味などないやりとり。それでもたしかに心くすぐられるものを感じつつ、「はいはい」とあしらって今度こそ立ち上がる。テーブルからコーヒーをつかみ上げると、缶が載っていた場所に水の輪っかができていた。
vol.3に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
砂村かいり(すなむらかいり)
神奈川県在住。『炭酸水と犬』『アパートたまゆら』にて 第5回カクヨムWeb小説コンテスト〈恋愛部門〉特別賞を2作同時受賞し作家デビュー。最新刊『マリアージュ・ブラン』を2024年10月発売予定。