麻布競馬場「独身の女王」 vol.5【web連載小説】

惑いのある30代の恋愛を、旬の

惑いのある30代の恋愛を、旬の作家が描くCLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜21時に公開。第二回は麻布競馬場さんの『独身の女王』

これまでのあらすじ

都内で働く独身の”私”は、一人暮らしの自分のためにベッドのマットレス購入を検討中、崇拝していたインフルエンサーの倉田真季(くらたまき)の結婚を知り愕然とする。彼女は「独身のカリスマ」として知られ、愛用するネックレス(通称「独身ネックレス」)が流行するなど、社会現象になる存在だった。そのショックからマッチングアプリに登録したところ、大学時代の同級生であり皆の憧れの存在でもあった松島(まつしま)とマッチングが成立。喜んで再会するが、彼は「会社、やめようと思うんだ」と突然告白し…。

「最初のうちはさ、僕も最年少役員とか子会社社長とかを目指して頑張ってきたけど、東大卒とか海外大卒とかの連中には勝てっこないし、会社もそれを分かってきたのか、最近は外コンから中途で入ってきた人がいいポジションを横取りするようなことも増えてきてさ。そうなると、もうこれ以上頑張るのも馬鹿らしくなってきて……」

彼が言うには、そんな諦めに襲われて無気力になってしまったのは彼だけではないらしい。あの頃の若者たちを熱狂させていた「若手のうちから圧倒的な裁量を与えられて、圧倒的に成長できる」みたいな価値観はすっかり鳴りを潜め、現実を知った多くの社員は、働き方改革を言い訳にして毎日定時退社し、飲みに行ったり推し活に励んだりしているらしい。つまり、今や老舗企業になりつつあるキラキラメガベンチャーにも大企業病が蔓延してしまっていて、自分もそれに巻き込まれてしまった、というのが彼の主張だった。

「でもさ、それはそれで正しいと思うんだ。今ってそういう時代じゃない? 仕事だけが人生じゃないのは確かだし、全員が死ぬ気で頑張り続けられるわけでもないしさ。僕はむしろ、これまでの時代のほうが間違ってたと思う。これからは、そういう頑張れない人たちも報われて、幸せになれる時代が来るべきなんじゃないかな?」

力のない笑みを浮かべた松島がしみじみと呟くそんな言葉を、私はどういうわけかすんなり受け止められず、それどころか、どこか胡散臭さすら感じ始めていた。だって、私があの頃愛した松島は、こんな弱いことを言う人間じゃなかったのだから。松島には、完璧な人間でいてもらわなくては困る。私は、記憶の中にいる完璧な松島に縋りつこうとしていた。

「……じゃあ、仕事やめてどうするの? 転職するの? それだったら、私も相談に乗るよ! 何かやりたい仕事とか、希望する条件とかない? 松島みたいな優秀な人が燻ってるなんて、もったいないよ。活躍できる場所、私も一緒に探すから、だから……」

私がかつて憧れた、完璧な松島のままでいてほしい。縋るような口調で私がそう言うと、松島は多少なりとも奮起する素振りを見せるどころか、さっきよりも更に弱々しい表情を見せた。まるで、哀れみを誘おうとするように。

「やりたいこと? 強いて言えば、婚活かな。それで最近、アプリを始めてみた。ほら、僕の勤務先、メガベンチャーって言っても今となっては安定感ある大企業だから、給料も悪くないし、福利厚生もしっかりしてるし、男性の育休とかにも理解があるから、いっそ早いうちに結婚して、イクメンか主夫をやるのもアリだなと思って。だって、今ってそういう時代じゃない?」

チワワのような上目遣い。どこまでも優しく、そしてどこまでも弱々しい言葉。その末に、テーブルの向こうのミドサー男性は「そういえば、結婚願望とかある? いま彼氏いるんだっけ?」だなんて下心丸出しで続けている。

彼が言うことには、一定の合理性があるだろう。最近は部下に「もっと頑張ったほうがいいよ」だなんて言うことはパワハラにあたるとマネージャー研修で教えられていたし、確かに同じ大学を出て大手日系企業に勤めている人間同士で結婚すれば、福利厚生や家事分担の部分なんかも含めて色々と都合がいいだろう。

しかし――うまく言葉にできない気持ち悪さみたいなものを、今の松島からは払拭し切れなかった。私はその原因を探るように、慎重に質問を投げかけた。

「……松島の言いたいこと、よく分かった。でも、なんで今になって、私と会おうと思ったの? これまでずっと、ゼミ同期の集まりには来なかったのに」

私の質問は想定外のものだったのだろうか? 彼が顔に張り付けていた弱々しさは一瞬剥がれ落ち、私が知っているあの頃の松島が、たった数秒だけではあるけれど、その奥に覗いたような気がした。それを取り繕うことを優先したために油断が生まれたのか、きっとそれが本音なのだと信じることのできる言葉を、今の松島は吐き出した。

「だって、どうせ失望したでしょ、こんな状態の僕を見たら。みんな、勝手に僕にあれこれ期待してたんだから。最近、ようやく気持ちが楽になったんだ。ああ、弱くて情けない自分でいてもいいんだって」

 

それが、その日の実質的な最後の会話になった。それ以上言葉を交わさなくとも、私は松島のことがすっかり理解できたような気がした。「なんだかちょっと、飲みすぎて気分悪くなってきたかも」とか適当なことを言って、早々に会をお開きにした私は事前にアプリで配車していたタクシーに飛び乗った。こんな時でも、窓の外を流れる東京の夜景は泣きたくなるくらいに綺麗だった。

松島の、あの草食動物みたいな優しく、そして弱々しい目を思い出す。社会の厳しさに直面した松島は、かつての自分を捨て、新しい自分になることを選んだ。そのことが、ゼミ同期たちの期待を裏切ることになると知っていた彼は、彼らの前に姿を現すことをやめた。しかし幸いにも、時代が彼に追いついた。自分自身の変化に、彼はもはや罪悪感を持たなくてよくなった。堂々と、弱い自分のままで生きられるようになった。そうして、彼はマッチングアプリを始めて、そこで私を発見した。そのうえ、昔は恋愛対象として引っ掛かりすらしなかったその女が、今となっては結婚相手として悪くないことをも発見した― さしずめ、そんな経緯だったのだろう。

「それでどうするの、新しい『教祖様』でも探すの?」

緊張のせいか飲みすぎたワインの酔いも醒めてきて、ようやく一定の冷静さを取り戻しつつある私の脳裏に蘇ったのは、あの日の祐子の言葉だった。

今日起きたちょっとした悲劇の原因は、どちらにあったのだろう? 松島か、それとも……。青春の頃のキラキラした思い出が、よりによってその思い出の主人公によって傷つけられてしまったような気がして、つい被害者ぶってしまいたくなるが、きっと松島は何も悪くない。彼はただ、本当の自分として、新しい自分として生きることを、勇気を持って選んだだけなのだ。

そうだ、悪いのは私だ。勝手に松島に期待して、勝手に彼を「教祖様」に仕立て上げようとした。そのうえ、今もこうして、彼が私の望む「教祖様」になれないと知って、勝手に傷ついて、被害者みたいな顔をしている。そんな自分のことが、死にたくなるくらい嫌になった。

私は弱い人間だから、誰かに勝手な期待を抱いてしまう。自分の人生を肯定してほしい。変わらない自分を、永遠に肯定してほしい。そのためにも、永遠に変わらないでいてほしい――。その誰かもまた自分の人生を生きていて、時には自分を信じてくれている人たちの期待を裏切ってでも、自分のために自分を変える権利を有しているというのに。

真っ暗なマンションに帰って、どうにかメイクだけは落として、シャワーも浴びずにマットレスに沈み込む。きっと、松島ともう会うことはないだろう。これからの私の人生には、かつて存在した彼への憧れと、今日起きた出来事にまつわる苦い思い出だけが残る。ただ、翌朝目が覚めたら、私の人生はまた始まり、死ぬまで続いてゆく。それをどう生きるか、ということへの答えはすぐには出ないだろうが、せめてマットレスの問題くらいは、ちゃんと向き合って、答えを出そう。溶けてゆく意識の中で、私はどうにか決意した。

vol.6に続く

イラスト/日菜乃 編集/前田章子

麻布競馬場(あざぶけいばじょう)

1991年生まれ。会社員。覆面作家として投稿したX(旧Twitter)の小説が話題に。2022年9月に自らの投稿をまとめた短編集『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』で小説家デビュー。Amazonの文芸作品の売上ランキングで1位を取得する。2024年『令和元年の人生ゲーム』で第171回直木三十五賞候補に初ノミネート。

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