仕事も恋愛も人生の踊り場にいる30代の揺れ動く心を旬の作家たちが描く、CLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜21時に公開します。今回は第171回直木賞候補となった一穂ミチさんの『感情旅行』の最終回。
これまでのあらすじ
主人公の華(はな)は、癌で亡くなった地元の旧友である蒔生(まきお)の葬儀に出席し、そこで蒔生の息子で高校生の千歳(ちとせ)と再会する。蒔生とは彼が妻と別居中、なし崩し的に付き合っていたが、その後別れていた。千歳に突然旅行しようと誘われ、二人で島根の玉造温泉へ向かう。旅館で千歳と話しながら、華は最後に蒔生から保証金として預かった五十万のことを思い出していた。
一度だけ、直を憎んだことがある。
蒔生の保証人になった時、一応話しておいたほうがいいかな、と思ってなるべく軽い感じで説明した。地元の友人で信頼できる相手だから、と。
そうしたら直は、薄い笑みを浮かべ、「大丈夫?」と言った。「その件で金銭的なトラブルが生じても俺は助けないけど大丈夫?」の「大丈夫?」だった。それは別にいい。結婚もしていないし、当たり前だ。
この人は、自分が身体や心を損なって働けなくなる未来とか、マンションの審査が難しくなる状況とか、想像もしていない。健康で社会に通用している人間だから。その無邪気な無神経さと冷淡さを、烈しく憎んだ。いつもの砂より派手な、がりがりという音が奥歯で響き、自分の歯を噛み割っているのかと危ぶんだほどだった。
そのことを千歳に言おうかな、と思ったけれど、夜風でだいぶ酔いも冷め、わたしは理性を取り戻してしまった。子どもに聞かせる話じゃない。黙って千歳の頭に自分の頭をもたせかけた。
翌日はチェックアウトぎりぎりまでお風呂に浸かり、結局宍道湖には行かず、そのまま空港から帰った。羽田空港に着くとわたしは銀行の封筒を千歳に差し出す。
「はい、これ。往復の交通費と宿代引いた残り」
本当は、手つかずで返せたらかっこいいんだけど。
「いらない」
千歳は受け取ろうとしなかった。「はなくそにやるって言ったじゃん」
「もらえないよ」
「いいから。昔のシッター代だと思えよ。父さんだって本望だろ」
きのうのお返しのつもりだろうか。欲しい言葉をくれるのは。「いや、でも……」となおもためらっていると、千歳が封筒をひったくり、トートバッグにねじ込んだ。そしてわたしの手を取り、手の甲にハンドクリームを押し出した。つめたい。
「華がお母さんになったら、って父さんに訊かれた話だけど」
「うん」
「やだって答えた」
千歳は目を伏せ、自分の手の甲でわたしの肌に乳白色のクリームを馴染ませていく。
「……俺が華と結婚するから、って」
「は? ふざけんなよ」
わたしは即座に言った。
「あんたがそこでおとなしく『お母さんになってほしい』って言ってたら、養ってもらえたかもしんないのに」
「おい、喜べよ」
「嬉しくないもん。それともなに、十年後とかに医師免許持参で迎えに来てくれんの?」
「いやそれは無理」
「そうだろうが! 人の人生設計狂わせやがって……」
もし蒔生と結婚していたら、あるいは、医者になった千歳と、歳の差を乗り越えて結ばれたら、わたしの不安も心細さも、砂を吐くように解消されるだろうか? そんなわけがない。人生はそんなに単純じゃない。それがわかる程度には大人になれて、よかった。
千歳と別れ、遠ざかっていく背中を見つめる。蒔生とは全然似ていないけれど、振り返らないところは同じだった。「きりがないから」と、蒔生は言っていた。
最後に見た蒔生の後ろ姿。シャツの上からでも肩甲骨が飛び出しているのがわかるほど瘦せこけた蒔生の背中を、追いかけたかった。わたしが傍にいるから大丈夫、一緒に暮らそうと言いたかった。同情や寂しさやいろんなものが混ざって純粋じゃなかった、けれどあの雑踏の中で、わたしは確かに蒔生を愛していた。あんなふうに人を想う瞬間は、この先一生訪れないだろう。
ひとりでモノレールに乗り、手の甲をかいでみる。若草みたいな、ちょっとよもぎ団子に似た匂いだった。これがデパコスの香りか、と納得がいくような、拍子抜けするような。
そうだ、直にお土産を買うのを忘れていた。スーパーで買い物して、ちょっと手の込んだ晩ごはんでも作ろう。
それから、コンビニで果物を買わないで、って言ってみようか。
わたしは手の甲に鼻先を押しつけ、深く息を吸い込む。泣いているように見えたかもしれない。
(おわり)
Fin.
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
一穂ミチ(いちほ・みち)
2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。『イエスかノーか半分か』などの人気シリーズを手がける。2021年『スモールワールズ』が大きな話題となり、同作は吉川英治文学新人賞を受賞、本屋大賞第3位。『光のとこにいてね』が直木賞候補、本屋大賞第3位。今もっとも新刊が待たれる著者の一人。近著に『ツミデミック』が第171回直木賞候補に。