30代の揺れ動く心を旬の作家たちが描く、CLASSY.ONLINE限定アンソロジー。毎週水曜21時に公開します。今回は第171回直木賞候補となった一穂ミチさんの『感情旅行』。
これまでのあらすじ
主人公の華(はな)は、癌で亡くなった地元の旧友である蒔生(まきお)の葬儀に出席し、そこで蒔生の息子で高校生の千歳(ちとせ)と再会する。蒔生とは彼が妻と別居中、なし崩し的に付き合っていたが、その後別れていた。千歳に突然旅行しようと誘われ、二人で出雲大社へ向かう。参拝した後、島根の玉造温泉へ向かいながら、華は最後に蒔生と会った三年前、別れ際に預かった五十万のことを思い出していた。
玉造温泉にはきれいな川が流れていた。歩き疲れていたので散策もせず宿にチェックインし、千歳は部屋の露天風呂に、わたしは大浴場に入った。大きな湯船で歩き疲れた足を揉みほぐし、備え付けの日本酒パックを試し、湯上がりは無料のアイスとくろもじのお茶をいただいて満喫した。浴衣じゃなくて作務衣だから、裾がはだける心配がないのもいい。直からは箱根の宿の写真が送られてきていて、『すごーい』というスタンプだけ返した。
夕食は、わたしには量が多すぎたけれど、そのぶん千歳が食べてくれたのでちょうどよかった。そういえば、お昼のそばも飲むような勢いで瞬く間に平らげていた。これが育ち盛りか。珍しくお酒をたくさん飲んで軽く酔っ払ったわたしは、食事処から部屋に戻ると「一緒に露天風呂入ろうぜ」と千歳に絡んだ。
「何言ってんだよ」
「照れんなって。服脱がなくてもいいから、足湯しよ」
テラスにある浴槽のへりにタオルを敷き、作務衣のズボンを膝まで捲り上げて足だけ湯に浸かった。十年前、わたしの手より小さかった千歳の足はまるでかわいげのないでかさに成長している。目隠しの木立で外の景色はほとんど見えないけれど、ちらりと覗く夜空は晴れ、星がいくつも瞬いていた。
「あったまるー。ごはんもおいしかったし、極楽」
と、軽率にそんな単語を発してしまい、自分でどきっとした。千歳は気にするふうもなく「次は彼氏に連れてきてもらえよ」とえらそうな口をきく。
「無理、こんな高いとこ泊まれない」
「誕生日とかクリスマスにねだれば」
「わたしのリクエストなら折半になるよ。そんな余裕ない」
「え、お前の彼氏、ケチ?」
「じゃないけど、うーん……『不当な損をしたくない』タイプ?」
「ケチじゃん」
「違うって」
高校生に聞かせる話じゃないな、と思いつつ、アルコールで軽くなった口が止まらない。
「映画のチケットは彼が払ってドリンクとポップコーンはわたしとか、ランチは彼が払ってお茶はわたしとか、そういう気遣いはしてくれるよ。でもわたしの希望で一泊十万近くする宿に泊まるんだったら、許容範囲を超えるから半々。旅行に行きたいって言えば、わたしが払えるランクのビジホとかに合わせてくれると思う」
そして、自分がお高い宿に泊まりたい時はひとりで行く――きょうみたいに。「何かやなやつ」と千歳がぼそっとつぶやき、わたしは「やなやつだったらつき合ってないよ」と言いながら、心の隅で千歳の悪態を喜んでいる。
直と出会ったのは、シェアハウスに入居してひと月ほど経った時。シェアメイトのひとりが主催した飲み会で意気投合した。好きなドラマの話で盛り上がってふたりで何度かごはんを食べ、自然な流れでつき合うようになった。一日も早く、蒔生の存在を新しい恋人で塗りつぶしたかった、というのもある。それから半年後にシェアハウスを出て直と同棲を始めたのも、どちらかが熱望したというわけでなく、ごくスムーズななりゆきだった。
引っ越した夜、スーパーのお惣菜とワインでささやかに祝った。グラスを触れ合わせながら、直は言った。
――シェアハウス脱出、おめでとう。
その時初めて、じゃり、と口に砂が湧いた。お惣菜に何か混ざってたのかな、あさりのメニューなんかないのに、と思いながら舌先で口内を探っても何もない。でも、感触だけは確かにあった。
直は、わたしが貧乏だからシェアハウスに住むしかなかった、と思っている。それは決して間違いではないものの、「脱出」という言葉選びがいやだった。でも、さあ一緒に暮らしましょうとスタートを切った日に喧嘩はごめんだったから、黙っていた。以来、折に触れて口の中に砂粒が出現するようになった。
家賃は直が七割、わたしが三割。だから二LDKのマンションでふたつある個室のうち片方はふたりの寝室、もう片方は直の趣味部屋。家事は分担制で生活費は折半。直が買い物に行くと肉も野菜も当たり前に国産を選び、コンビニで少量のいちごやりんごを平気で買ってくることもある。夏場は二十度設定でエアコンをつけっぱなしにする。わたしの懐は、シェアハウスにいた頃よりずっと寂しくなった。でも直はやさしいし、一緒にいて楽しいし、家事も手を抜かないし、わたしより稼げているのは直がちゃんと努力して「通用する人間」になったから。尊敬こそすれ、妬む筋合いはない。なのにどうして今、直のことを考えるだけでじゃりじゃりした気持ちになるんだろう。噛みつぶし、飲み下してきた幻の砂は、胃の中でどうなっているんだろう。
「貧すれば鈍する、って言うじゃない?」
「うん」
「鈍どころか、こんなに過敏なのになあって思うよ。へちまのたわしで身体を擦りすぎたみたいにいつもひりひりして、この先どうしようってそればっかりで、ほかのことに気を配れなくなる。だから、蒔生が亡くなったって聞いた時、いちばんに冬の喪服がないことを考えて、二番目に、預かってた五十万のことを考えた。これ、もらっとけないかなって」
最悪、と自分に吐き捨て、つま先で湯を跳ね上げた。ぱしゃっと立った水音で自己嫌悪が滲み、消えないしみになる気がする。
「そんなの、俺だってだよ」
千歳がぽつりと漏らした。
「離婚する時、母さんについてくって俺が選んだ。病人とずっと一緒ってきついから。体調がいい日なんかなくて、すごく悪いかそこそこ悪いかちょっと悪いか、三番目はほぼない。父さんは、あんまそういうこと口に出すタイプじゃなかったけど、それでも気ぃ遣うし、滅入るんだよ。いちばんつらいのは本人だってわかっててもしんどい」
それは、ある意味健全な反応なのだと思う。若くてぴかぴかの生き物が、衰え弱っていく個体を忌避しようとするのは。きれいごとで生活は成り立たない。
「最後のほう……もう危ないからって病院に呼ばれて父さんとしゃべった時『生命保険の受取人はお前にしてるからな』って言われて、一瞬、やった、って思った」
千歳の声がさざ波立つように揺れた。
「医学部行くんなら国公立現役しか無理だと思ってたけど、保険金が入るなら浪人できるかも、私大も選択肢に入れていいかもって……父さんはずっとにこにこしてたけど、絶対、顔に出てたと思う。普通は、そんなのいらないから元気になってくれって思うだろ」
ああ、そうか。ようやく理解した。千歳はこれを打ち明けたくて、わたしを旅行に誘ったんだ。
「馬鹿だねえ」
わたしは片手で千歳の頭を抱き寄せた。もうわたしの手に余る大きさで、髪の毛も硬く太い。でも、この子はまだまだ子どもだ。
「蒔生は本望だよ。千歳が困らないようにかけてた保険なんだから、気に病む必要なんて全然ない」
「そうかな」
「そうだよ。だって、お医者さんになろうと思ったのは、蒔生を見てたからじゃないの?」
「……忘れた」
「何でそこで照れるの」
「うるさい」
千歳が猫みたいにぐりぐり頭を押しつけてくる。わたしは痛い痛いと言いながら、これでいいんだよね、と心の中でもういない蒔生に語りかける。
vol.6に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
一穂ミチ(いちほ・みち)
2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。『イエスかノーか半分か』などの人気シリーズを手がける。2021年『スモールワールズ』が大きな話題となり、同作は吉川英治文学新人賞を受賞、本屋大賞第3位。『光のとこにいてね』が直木賞候補、本屋大賞第3位。今もっとも新刊が待たれる著者の一人。近著に『ツミデミック』が第171回直木賞候補に。