第171回直木賞候補となった一穂ミチさんによる連載小説『感情旅行』。惑いのある30代の心を、CLASSY.ONLINE限定アンソロジーで旬の作家たちが描きます。毎週水曜21時に公開。
これまでのあらすじ
主人公の華(はな)は、癌で亡くなった地元の旧友である蒔生(まきお)の葬儀に出席し、そこで蒔生の息子で高校生の千歳(ちとせ)と再会する。蒔生とは彼が妻と別居中、なし崩し的に付き合っていたが、その後別れていた。千歳に突然旅行しようと誘われ、二人で出雲大社へ向かうが…。
せっかくバスで出雲大社の目の前まで運んでもらったというのに、千歳は全然違う方向に歩き出した。
「ねえ、どこ行くの」
「海岸。稲佐の浜ってとこで砂を取って、それを神社に納めるんだって」
「何で」
「砂を納めて、その代わりに神社の砂をもらって、家の周りとかに撒くといいらしい」
「どういいの」
「魔除けとかだろ。はなくそ、さては出雲大社では『二礼四拍手一礼』ってことも知らねーだろ」
「あんたこそ何でそんなに詳しいの」
「せっかく行くんだから予習くらいするわ」
「優等生ぶるじゃん」
「優等生だよ、俺。医学部志望だし」
「なら、学問の神さまみたいなとこにすればいいのに」
「父さんが行きたいって言ってたから」
「……ああ、蒔生、好きだったね」
初詣やお祭りで近所の神社に行くのを欠かさなかったし、「いいだろ」とびっしり埋まった御朱印帳を見せられたこともある。何がいいのかさっぱりだったけど。
「そん時は、旅行もできないほどの体調じゃなかったから、行けばって言ったんだけど、『今は駄目だ』って拒否るんだよ。神さまを信じてるわけじゃなくて、ふんわりと神社が好きなだけなのに、今行ったらガチの神頼みしちゃいそうだから、それは違うって」
「蒔生らしい」
わたしは思わず笑った。「そういうずれた生真面目さと頑固さのある人だった」
「うん」
こくりと頷く千歳に、幼い面影が一瞬重なる。
稲佐の浜はきれいなところだった。日本海は太平洋に比べて沈んだトーンのイメージがあるけれど、生まれ育った南房総の海より淡くやさしい色をしていた。晴れ渡った天気のせいかもしれない。波打ち際からすぐのところに大きな岩山が生え、そこにも鳥居が建てられていた。千歳はプラスチックスプーンとチャック付きのちいさなビニール袋まで持参していて、わたしたちは海風に吹かれながらしゃがみ込んで砂を掬った。直といる時、口内に湧いて出る砂の感触を思い出す。あれはもっと目が粗いかも。『もうお参りした?』という直からのLINEにまだ返信していない。
砂を携え、神門通りのおそば屋さんで割子そばを食べてから参拝した。わたしは千歳の後にくっついてあっちこっちでお辞儀と柏手を繰り返し、財布の小銭を空にした。もちろん、山肌にへばりつくようなお社の軒下に備え付けられた箱に砂を入れ、また砂をもらうという謎の儀式も執り行った。いちばん見応えがあったのはテレビや、雑誌でよく見る巨大なしめ縄だった。
「何かお祈りした?」
千歳に訊かれ、わたしは「別に」と答えた。
「じゃあ何考えて手合わせてたんだよ」
「何も」
「バカじゃね」
「うるさい」
蒔生が安らかに眠れますように、と神社で祈るのはちょっと違う気がした。
「男できますようにって念じなきゃだろ」
「いや、いるし」
千歳がわざわざ足を止め、心底びっくりした顔で覗き込んできたのでむかついて拳を腹に入れた。贅肉のない硬い手応えにいっそう腹が立つ。
「同棲してるから」
高校生にマウントを取ってやろうと言い放つと、即座に「結婚してもらえねーの?」と打ち返され、今度は本気のパンチをぶち込んだけれどひょろ長い身体はびくともしなかった。
「別にしたくないの! お互いに!」
「ふうん。あ、あの看板見て」
嘘つけとか負け惜しみとか言われるに違いないと身構えていたのに、あっさり流されて拍子抜けした。
「すぐ近くに博物館あるんだって。行ってみよう」
「歩き疲れたんだけど」
「しょうがねえな、熟女は」
「黙れ」
と凄むと、千歳は本当に黙々と歩いた。それはそれでつまらないので「ちょっと、本気で怒ってないよ」と軽く肩をぶつける。
「え? いや、違くて」
「何よ」
「そういや昔、父さんに訊かれたことあるの思い出した。『華がお母さんになったらどう思う?』って」
「……何て返事したの?」
千歳はそれには答えず、わたしに問い返した。
「はなくそ、父さんと結婚したかった?」
わたしはすこし考え「そこそこ」と回答した。
「何だよ、そこそこって」
「だって養ってほしかったんだもん。あの当時ニートだったから」
蒔生だって当然わたしの魂胆はわかっていただろう。それでも、自分が選ぶ側だとわたしは思い上がっていた。「うわあ」と千歳がみるみる顔を歪める。
「もちろん、蒔生のことは人として好きだったよ。恋愛のテンションじゃないってだけ」
「養ってほしいとか堂々と言うなよ、自立しろや」
血液の温度がすっと下がり、全身がぞわっとするのがわかった。ぐっと歯を食いしばると、砂粒が不快に軋む。
「働いたこともないあんたに、何でそんなこと言われなきゃいけないの」
声がふるえ、情けなさで千歳の顔を見られなくて小走りに近い速度で歩いた。宿の予約も全部ほったらかしてこのまま帰ってやろうか、という考えがよぎったけれど、それこそ図星を突かれて逃げたことになり、かっこ悪すぎる。千歳は何も言わずついてきた。
新卒で入社したのは、中堅の文具メーカーだった。わたしにしては上々の就職先で、親もゼミの教授も喜んでくれた。若手は必ず営業を経験させるという会社の方針は知っていたし、自分が営業部に配属された時も特に不満はなかった。
でも、わたしは、できなかった。取引先を回るのも、文房具のイベントで自社製品を売り込むのも、とにかく、できなかったとしか言いようがない。家では完璧にできた新商品のプレゼンで舌がもつれ、尋常じゃない量の汗が出る。いちばんつらかったのは、何がつらいのか自分でもはっきり言語化できないことだった。特にコミュ障でも人見知りでもなかったのに、営業部の肩書きで他人に会うと想像するだけで動悸がし、足がすくんだ。GW明け、会社に行かなければと思うのに身体が動かなかった。体調不良を言い訳に三日休んだ後、思い切って教育係だった先輩社員に打ち明けると「甘えんな」と吐き捨てるように言われた。先輩は先輩で、自分の査定もあるし、必死だったんだろうとは思う。
――新人のうちから仕事選り好みするとか、何さまだよ。そんなんで世の中やっていけると思ってんの? お前みたいなやつはどこ行っても通用しねえよ。
結局、お盆休みに十キロ痩せて帰省してきたわたしに仰天した両親が「辞めて家に戻ってこい」と言ってくれたのを幸い、退職してマンションを引き払った。会社からは休職や配置換えの提案もあったけれど、とにかくもう逃げたかった。「どこに行っても通用しない」という先輩の言葉はぶっとい杭になり、今もわたしの身体の中心を貫いている。現在の契約社員としての仕事は消耗品の発注や郵便物の仕分けをはじめ「事務補助」でくくられるあらゆる雑用で、わたしは決して気を緩めず、毎日必死で働いている。だってわたしみたいな通用しない人間が手を抜いたらおしまいだから。おかげで昇給やボーナスはなくとも、社員の人たちから信用され、やさしくしてもらえている。だから杭が抜けなくても大丈夫だ。
なのに、時々「こんなはずじゃなかった」という脱力感で膝から崩れ落ちそうになる瞬間がある。駅のホームだろうと会社の混み合ったエレベーターだろうとお構いなしに。たとえば今の千歳の年齢だった自分がどんな未来を思い描いていたのか、それとも何も考えていなかったのか、もう覚えていないけれど「こんなはずじゃなかった」のは確かだった。
でもそんなの、三十代で癌を患い、四十歳で死んでしまった蒔生のほうがもっとずっと強く、何度も思ったに違いない。
vol.4に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
一穂ミチ(いちほ・みち)
2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。『イエスかノーか半分か』などの人気シリーズを手がける。2021年『スモールワールズ』が大きな話題となり、同作は吉川英治文学新人賞を受賞、本屋大賞第3位。『光のとこにいてね』が直木賞候補、本屋大賞第3位。今もっとも新刊が待たれる著者の一人。近著『ツミデミック』が第171回直木賞候補に。