仕事も恋愛も人生の踊り場にいる30代。惑いの世代の揺れ動く心を旬の作家たちが描くアンソロジーを、CLASSY.ONLINE限定で毎週水曜に公開します。第一回は一穂ミチさんの『感情旅行』。
蒔生(まきお)の訃報を知らされた時、まず思ったのは、夏用の喪服しか持っていない、ということだった。二十五歳の夏に父方の祖父母が相次いで亡くなり、慌ててイオンで買った。以来、冬用も揃えなきゃなあ、と思ってはいたのだけれど、バッグやら真珠やら一色揃えると結構な出費で、しかもお葬式は北海道で行われた。痛んだ懐が回復してから買おう、と決意して十年が経った今も、わたしの懐は寒々しい。なので、七分袖の薄手の喪服に冬物のコートを羽織って出かけた。「葬儀は極力シンプルに」というのが故人の希望だったらしく、通夜なし、告別式のみの「一日葬」というやつだった。
蒔生のおじさんとおばさんは、泣いてはいたが、号泣というほどではなく、しとしと降り続く雨のように緩急のない静かな涙だった。蒔生は何年も癌を患っていたから、じょじょに心の準備ができていたのかもしれないし、悲しみとは別のところで、息子が苦痛から解放されたことに安堵していたのかもしれない。突然の死と、じわじわ濃くなっていく死、親としてはどっちがつらいんだろう。わたしの顔を見た途端「華(はな)ちゃん、ありがとうね」とふたりの涙の筋がすこしだけ太くなった。
出棺まで見届け、両親と兄と一緒におじさんたちに挨拶して帰ろうとした時、千歳(ちとせ)が駐車場まで走ってきた。
「華」
わたしは家族に「ちょっと話してくる」と目配せで伝え、駐車場の隅に移動する。すぐに千歳がふくらはぎを軽く蹴ってきた。
「はなくそ、黙って帰んなよ」
千歳しか使わないあだ名で呼ばれ、懐かしさが込み上げたが、しんみりするのも悔しいと思い「はなくそって言うんじゃねーよ」と蹴り返した。
「あんたから挨拶しに来なよ」
「何でだよ」
「何でだよじゃねーよ」
千歳は、わたしが知らない学校のブレザーを着ていた。四月からは何年生だったっけ。
「にしても、大きくなったねえ」
最後に会ったのは十年前。たったの十年で、わたしの胸くらいまでしかなかった男の子に余裕で見下ろされるようになってしまった。親族席に座る千歳を見た瞬間、この子が成長した年月、自分は特に進歩もなくただ歳を取っただけだと劣等感のようなものがよぎり、思わず目を逸らした。数十センチも身長が伸びるという成長期の目覚ましさを当の本人は特に意識していないのか「そういうのいいって」と煩わしそうに首を回した。
「ほんとに思ったんだからしょうがないじゃん」
「親戚かよ」
「ううん、赤の他人」
そっけなくするくせに、こちらが突き放した途端に寂しそうな顔をする、そんな子どもっぽさはまだ健在だった。わたしはなるべくやわらかい声で「何歳になったんだっけ?」と尋ねた。
「十七」
「五月生まれだったよね、じゃあ春から受験生だ」
「はなくそは五十歳だっけ」
「三十五だよ、ふざけんな」
「見た目より若いな」
「ガキに女の歳の見当なんかつかないくせに、てか、こんなとこでしゃべってていいの? これから火葬でしょ」
「お前は来ないの?」
「行かないよ、親族じゃないし」
「家族になるかもしれなかったのに?」
千歳からその話をしてくるとは思わなくて、びっくりした。昔の話だよ、と努めて落ち着いた口調で答える。
「お母さんは来てないの?」
「仕事だって」
「そう」
何を言える立場でもないので、ただ「風邪引くよ、もう行きな」と促した。二月にしては暖かな日だったけれど、コートの袖口から風が入り込むと手首から肘にかけて鳥肌が立った。上着を着ていない千歳はもっと寒いだろう。
「その前に、はなくそ、俺に言うことあるだろ」
「え?」
千歳はブレザーのポケットに両手を突っ込み、わたしを値踏みするように笑ってみせた。七歳の千歳は身につけていなかった笑顔だ。
「何よ」
心当たりは、ひとつだけあった。でも自分から言うべきか、知らんふりをすべきか。迷いで声が尖った。
「五十万」
手加減のない直球に一瞬息が止まる。
「父さんから預かってたんだろ」
「……忘れてた」
「嘘つけ」
「手はつけてない。きょう持ってくるのも何だかな、と思ってただけ。ちゃんとおじさんたちに返す」
一応、シミュレートはしていた。蒔生くんからお預かりしていたお金ですよね、はい、もちろんそのまま取ってあります。こんな日に持ってくるのもどうかなと思ったので……銀行振込でもいいですか?
おじさんたちからは何も言われなかったので、きっと知らないんだろうと油断していた。まさか、千歳から詰められようとは。
「まあ、いいけど別に」
「は?」
「はなくそにやってもいい。どうせ俺しか知らないし。ひとつだけ条件があるけど」
「あんた、なに言ってんの?」
旅行しようぜ、と千歳は言った。
vol.2に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
一穂ミチ(いちほ・みち)
2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。『イエスかノーか半分か』などの人気シリーズを手がける。2021年『スモールワールズ』が大きな話題となり、同作は吉川英治文学新人賞を受賞、本屋大賞第3位。『光のとこにいてね』が直木賞候補、本屋大賞第3位。今もっとも新刊が待たれる著者の一人。近著に『ツミデミック』。