吉川トリコ「つぶれた苺を食べること」【第三話ところがどっこいNew Jeans】

『CLASSY.』2024年1月号からスタートした、吉川トリコさんによる連載小説『つぶれた苺を食べること』。今月もCLASSY.ONLINEにて連載を公開します。

– あらすじ –
五年前イチゴ狩りツアーで出会ったムニ、桐子、映奈は「いちご会」と称し定期的に交流している。新年にLINEでやり取りしながら、婚活をしていたムニは未婚のまま出産する選択を考えはじめていた。一方、最年長の桐子が「夫に子どもができた」と発言して…。

夫の携帯の着信音がNewJea

夫の携帯の着信音がNewJeansになったころからどうも怪しいとは思っていたと桐子(きりこ)が切り出すと、【出た、ニュージーンズおじさん】とすぐさまムニが顔をしかめるような絵文字とともに反応し、【ニュージーンズおじさんってなに?】と映奈(えな)がたずねた。【ニュージーンズおじさんっていうのはね】とムニが解説をはじめそうになったので、【ニュージーンズおじさんについては後で自分で調べて】と断って、桐子は話を続けた。

クリスマス前にムニの家に集まったときにはことが判明した直後で、桐子自身まだ気持ちの整理もついておらず、どう話したらいいのかわからないでいた顚末を、年が明けた今日になってようやく二人にLINEで切り出せたのだ。ここは一気呵成(いっきかせい)にいくしかない。

子どもができたと夫から告げられたのは、十二月に入ってまもないころだった。桐子にとってそれはまったく晴天の霹靂といっていいようなできごとで、だから最初、夫がなにを言い出したのか、すぐには呑み込めなかった。子どもができたって……あっ、喜美(きみ)ちゃんとこに?と桐子は夫にたずねた。
喜美ちゃんというのは夫の三歳下の妹で、桐子のひとつ下。コロナ禍のピークともいえる時期に婚活アプリで出会った相手と昨年結婚したばかりだった。そう、喜美ちゃん、赤ちゃんできたの、とこれは口には出さず、胸のうちだけでそっと思い、よかった、と桐子は思った。義妹に赤ちゃんができたことではなく、自分がそのことを素直に喜べそうだということに。【ところがどっこいよ】

キーボードを打つ手に思わず力がこもる。こみいった話になるからフリック入力では間に合いそうにないと、スマホを放り投げてパソコンを起ちあげたのだった。小説家という職業柄ディテールを無視できない性分で、プライベートのメールやLINEでもつい長文になってしまうのが若い二人には申し訳ないなと思いつつ、それでもできるだけ厳密に正確に自分の身の上に起こったことを伝えたかった。【ところがどっこいってなに?】とアメリカ生まれアメリカ育ちの映奈が再びたずね、【ところがどっこいっていうのはね】とムニが解説をはじめそうになったので、【だからそういうのは後でよくないっていうかところがどっこいはところがどっこいでしょアメリカ育ちだろうがなんだろうがニュアンスでわかるでしょわかりなさいよそれぐらい】と長年の執筆活動で鍛えたタイピング能力で桐子は早打ちし、スパーンとエンターキーを押した。

古本屋街の一角にあるこだわりのコーヒーとカレーを出す喫茶店の女店主が、客の持ち込む日常のちいさなミステリーを解決する「コーヒーの冷めない距離」シリーズ、『源氏物語』を男女逆転し現代のホストクラブに舞台を移した「CLUB THE GENJI」シリーズ、来世は必ずいっしょになろうと誓った男と女が何度生まれ変わってもどちらかが余命宣告されて別れを余儀なくされてしまう「余命あとちょっと」シリーズなど、人気シリーズをいくつも抱え、三ヶ月に一冊のハイペースで書いているわりに、誤字脱字がほとんどない桐子の原稿は「きれいなお原稿」として編集者に重宝されている。そんなことで褒められたってなんにもうれしくはないのだが。

【ニュアンスでなんとなく汲み取りました。ところがどっこい、それでどうなったんですか?】すみません!と猫が土下座しているスタンプとともに映奈が促したので、【そう、それでね】と桐子は続けた。「喜美子じゃなくて俺だよ、俺俺」言いにくそうに顔をゆがめて夫は言ったのだった。なにを急にオレオレ詐欺みたいなことを言ってんの、と桐子は笑いかけ、そのときになってようやく――天啓のように、夫の言っていることを理解した。夫には外に女がいる。その女が妊娠した。NewJeansの着信音。急に洗面所の棚に並ぶようになったオーガニックっぽいヘアケアグッズ。コロナ禍以降すっかりリモートに切り替わっていたのに、会社に行くと言ってたびたび外出するようになったこと。このところ感じていたちいさな違和感の数々にそれで合点がいった。
「そんな、だって、どうするの、熱海の土地……」いま言うべきことはそんなことではないだろうと思いながら、なかば茫然(ぼうぜん)として桐子はつぶやいた。

海の見える熱海の丘に百坪近い土地を夏の終わりに見つけた。終の棲家(すみか)となる平屋を建てるのにじゅうぶんな広さで、温泉の引き込みも可能。なにより、夫の両親が暮らす町から目と鼻の距離にある。東京へは新幹線で一本だし、片道一時間もかからないからさほど不便ではない。

昨年まで続けていた不妊治療に終止符を打ち、これから先、何十年と続くであろう夫婦二人だけの人生に目を向けたとき、もう東京ってかんじでもないなと思ったのだった。東京に生まれ、四十年ものあいだ東京で暮らしてきたが、桐子はすっかり倦(う)んでいた。この街の目まぐるしさに。合理性や経済性を重視するあまり、いろんなものを切り捨てていく無慈悲さに。

世界中どこでだって小説は書ける。両親とはすでに死に別れ、きょうだいもいなければ、親戚とのつきあいも薄い桐子を東京につなぎとめておくものはなにもなかった。外資系のテクノロジー関連企業につとめる夫の働き方は、コロナ禍の前後でずいぶん変化した。現在暮らしている2LDKのマンションは二人で暮らすにはじゅうぶんの広さだったが、二人とも自宅で仕事をするようになり、つねに顔をつきあわせるようになると話が変わってくる。交互に近所のカフェをめぐってノマドを試してみたもののどちらも騒々しいところで仕事をするのは向いておらず、シェアオフィスを借りるか、思いきって外に仕事場をかまえるかと検討していた折に、物は試しとマンションを査定してみたら驚きの結果が出た。

経堂のマンションは結婚前に桐子がキャッシュで買った築五十年のヴィンテージで、すでにあちこちガタがきているものの、このところの都内のマンションの異様な高騰により、買ったときの二倍近い値がついた。思いきって売っちゃおうか、と提案したのは桐子のほうだった。うん、そうしよう、そのお金を頭金にして夫の故郷に家を建てよう。いったん思いついたらもうそれしかないという気がして、インターネットで土地を探しはじめた。そうしてその週末には夫を引きつれて熱海に赴き、もう少し落ち着いて考えようという夫の言い分には耳も貸さず、こちらの物件ですが他のお客さまからも問い合わせをいただいているので今日決めないとおそらく数日中には持っていかれてしまいますという不動産屋のお決まりの営業トークにまんまと乗せられてしまったのである。

それからは目まぐるしい毎日だった。三ヶ月に一冊の執筆ペースは落とさないまま、建築系の雑誌や書籍をかたっぱしから漁ってこれはと思えるような建築家を見つけ出し、それと並行してマンション売却の話も進めつつ、あれこれ書類をかき集め、夫の名義で住宅ローンの事前審査を通した。十二月に入ると年末進行が重なり、さらには「コーヒーの冷めない距離」ドラマ版のシーズン2が決まり、来春四月からの放送開始に合わせてどうしても新刊を出したい、普段は三ヶ月でお願いしているがそこをなんとか一ヶ月でお願いしますと編集者から無茶ぶりされていたところへ、とどめの一発ともいえる夫からの突然の告白で、桐子は自分が正気を保っていられるのが不思議なぐらいだった。
【あの練乳クソ野郎】あんな練乳野郎と結婚するからそんな目にあうんだよ、とは映奈は言わなかった。かわりに、「練乳野郎」に「クソ」がつけ足された。持つべきものは気勢のある女友だちだなと思って桐子は笑った。
【それでね、もう決めたの】そこで桐子は、キーボードを打つ手にひときわ力を込めた。
【私、一人で熱海に家を建てることにした】打ち込んでから、桐子は自分がとっくに正気を失っていることに気づいた。

クリスマスがくる前に、夫は経堂のマンションを出ていった。段ボール数箱分の荷物を宅配業者がどこに運んでいったのか、宛先までは確認しなかったけれど、おそらくはニュージーンズ彼女の部屋に転がりこむつもりなのだろう。そのことについて、桐子は深く考えまいとした。夫の新しい生活、新しい女、新しく生まれてくる子どものことを少しでも考えたらどうにかなってしまいそうで、それでなくとも締切に追われているのにそっちに意識を持っていかれるわけにはいかないと無理に蓋をした。

「土地の手付金二百万円は慰謝料がわりにもらっとくね」別れ際、冗談めかして桐子が言っても夫は笑わなかった。それで桐子は、夫が「元夫」になってしまったことを悟った。これでおしまい。
さいわいまだ夫名義のローンは実行されていないから、いまからでも引き返そうと思えば引き返せるところにいた。仮にマンションが査定通りの値段で売れたとしても、熱海の土地の代金を支払ったら終わりで、上物の住宅のローンは残る。桐子の名義でローンが通るかどうか、そこからやり直さなければならないだろう。落ち着いて考えてみれば、熱海なんて縁もゆかりもない場所に一人で家を建てるなんてバカげているとしか思えなかった。それでも、一度は夢を見たのだ。毎朝波の音で目を覚まし、海を見下ろしながらテラスでコーヒーを飲み、気が向いたら犬を連れて海辺を散歩しにいく(【犬飼ってもないのに?】とムニ、【気が向いたらじゃなくて犬の散歩は朝晩するもんでしょ】と映奈)。結婚してからの食事は夫にまかせるか、外食や宅配ですましていたけれど、広々としたキッチンでひさしぶりに腕をふるって、東京から遊びにきた編集者や友人たちをもてなしたい。陽が沈んだらゆったりと温泉に浸かり、一日の疲れを癒す。夜は天窓に切り取られた星空を見あげて眠りにつく。そろそろ執筆ペースを落とし、小説家としての命運を賭けた大作にじっくり取り組んでもいいころだ。そのためにはうってつけの環境といっていいだろう。

なにより、天井まである本棚に四方を囲まれた書斎を想像するだけで桐子はうっとりした。吹き抜けのリビング階段のすぐ脇にも巨大な本棚を設置し、増殖し続ける蔵書をびっしり収められたらどんなにいいだろう。本の森で暮らしたい。それは子どものころからの桐子の夢だった。一度は手が届きそうになった夢をいまさらあきらめるなんて、そんなこと桐子には耐えられそうになかった。
とはいえ、この先何十年と続くローンを一人で払っていく覚悟や勇気や自信が、桐子にはまるでない。
おかげさまで「コーヒーの冷めない距離」シリーズは累計五十万部を突破し、昨年放映された深夜枠のドラマも好評で、累計二十万部の「CLUB THE GENJI」シリーズはコミカライズされ、次はソシャゲに……なんて話も出てきている。累計三十万部の「余命あとちょっと」シリーズはつい先日、映画の制作発表記者会見が行われたばかりだ。
傍から見ればずいぶん華やかで順風満帆、押しも押されもせぬ人気作家に見えるのだろうが、実際はそうでもない。映像化されたところで本の売上にはたいして影響がない上に、このところ急に初版部数がしぼられるようになり、重版もなかなかかからず、かかったとしてもかなり渋く部数を刻んでくる。この数年で目に見えて収入が減っているのである。

あと何年かすれば自分の本を出してくれる出版社などこの世に存在しなくなるのではないか、売れているときだけこき使われて使い捨てにされるのではないか、という恐れが桐子の中にはつねにある。それでなくとも桐子が主戦場としているのはライト文芸――それなりに売上はあげるけれど、なにかと軽んじられがちなペーパーバック的ジャンルである。心機一転、キャリアアップをはかるため、シリアスで重厚な大作――つまりは「文学的な、あまりに文学的な」小説を書いてハードカバーの単行本を出版したいと願っても、そんな依頼は桐子のもとにはやってこないし、近年、紙の価格の高騰により直木賞作家ですらハードカバーで製本された単行本を出版するのは難しいと聞く。

こんな状況でサラリーマンの夫という「安定」を失い、さらには一人でローンを背負うはめになってしまったら、執筆ペースを落として大作に取り組むなんて夢のまた夢、市場のニーズに合わせたライトな読み捨ての小説を量産し、稼げるうちに稼ぐよりほかに道はないのである。しかし四十歳を迎え、日に日に体力の衰えを感じるようになった自分に、これまでのようなペースで仕事を続けられるとは思えない。貯えがまったくないわけでもないけれど、数年に及ぶ不妊治療にぶっこんだために残高がごっそり減ってしまい、明日をも知れぬフリーランスの身としてはもしものときの保険としてできるだけ手をつけずに置いておきたい。「安定」を優先させるのであれば、いまのマンションは売らずにそこで暮らし続けるのがいちばんいい。そうに決まっている。

ところがどっこい、である。
【一人で熱海に家を建てることにした】心を裏切り、指が勝手に動いていた。えっ、そうなの?ほんとうに?と桐子自身がいちばん驚いていたが、二人の反応は極めて薄かった。【熱海かあ、子どものころ家族で一回行ったことあるかも】とてきとうに返すムニ。【これからいちご会をやるときは熱海集合だね】とこれもまたてきとうな映奈。
ちょっと待って、友だちならこんなとき、もう少し落ち着いて考え直したらって言ってくれるもんじゃないの?
――そこまで考えてから、どうせ言ったところであんた人の話なんて聞かないじゃない、と桐子は自分で自分につっこみを入れた。持つべきものは友だちである。桐子自身よりもこの二人のほうがよっぽど桐子のことをよくわかっている。指が心を裏切ったんじゃない。心はもうとっくに決まっていたのだ。誤字脱字のほとんどない桐子が、タイプをミスするなんてありえなかった。わかったわかった、こうなったら建ててやるわよ、女一人で。それでようやく桐子は覚悟を決めた。建てればいいんでしょ、女一人で。

イラスト/松下さちこ 再構成/Bravoworks.Inc

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