『CLASSY.』2024年1月号からスタートした、吉川トリコさんによる連載小説『つぶれた苺を食べること』。今月は特別に第1話の内容を3日連続でCLASSY.ONLINE限定にて配信します。
子どもを産もうと思っている、とようやくムニが切り出せたのは、ベルギービールからはじまり、シャンパンと赤と白とオレンジワイン、チャミスルと生マッコリのボトルをそれぞれ一本ずつ空にしたあとだった。
こんなに飲んでおいてそりゃないわ、と桐子(きりこ)はけらけら笑い、ごめん、膀胱が死ぬ、とつぶやいて映奈(えな)はトイレに駆け込んだ。
金曜日の夜。時刻はすでに一時をまわっている。
いや、だからまだ妊娠はしてなくて、これからの話なんだけど……と説明しかけ、ムニはもっと早くに切り出しておくべきだったと後悔した。アルコール耐性は比較的あるほうだから、酒の力を借りるころにはだいたいまわりがつぶれているか泥酔状態に陥っている。
この日もそうだった。飲みはじめるとひたすら陽気になる桐子は途中からムニや映奈がなにを言っても笑い転げていたし、「テキーラちょうだい。え、この店テキーラ置いてないの?」と根っからのパーティーガールの映奈は、ろれつのまわらない口でうわ言のようにくりかえしていた。
南砂町駅から徒歩七分のワンルームマンションは、ムニが一人で暮らすぶんには問題ない広さだが、女が三人寄り集まって何時間も酒を飲んでいるとさすがに息苦しくなってくる。
いつもだったら桐子が夫と暮らす経堂のマンションか、中目黒にある映奈が経営する会社の事務所におじゃまするところなのだが、あいにくいまはどちらも具合が悪いということで、ムニの部屋に集まることになったのだった。
酔っぱらった女たちのアルコールまじりの呼気で白くくもった窓を開けると、ひんやりした空気が室内に滑り込んできた。のぼせた体にきもちがいい。これで少しは二人の酔いも醒めるだろう。ムニはガラスのボウルに一粒だけ残った苺をつまみ、口の中に放り込んだ。
売れっ子作家(――とムニが言うと、「元、ね」と即座に桐子は訂正するのだが)の桐子が、高級果物店で金にものをいわせて買ってきた十二月の苺は蜜のしみだすような甘さで、痛いほど酸っぱい苺が好きなムニにはすこし物足りない。それでも苺は苺だ。
「でも、こないだまでつきあってた男とは別れたんじゃなかったっけ。ほら、あれ、アプリで知り合ったとかいう理学療法士の」ふと正気を取り戻した桐子が、ウィスキーのボトルに手を伸ばしながらムニに向かって言う。
最初に出会ったころからまるで変わらない、耳の下で切りそろえた髪と赤いフレームの眼鏡。不惑を迎えたばかりだというのに、不思議と少女っぽい印象が先に立つ。気やすいようで気難しく、がさつなようで繊細、夢見がちなリアリスト。AB型のてんびん座というのもうなずける。五年のつきあいになるのにいまだにつかみきれない、相反する要素を持ちあわせた複雑な人物である。
「それいつの話?理学療法士と別れたのなんて、もう一年ぐらい前の話じゃない?」テキーラテキーラと騒いでいた映奈も横から手を出し、マッコリで白く膜の張ったグラスにどぼどぼとウィスキーを注(つ)いでいる。映奈はアメリカ人と日本人のハーフである(気を使ってムニが「ハーフ」を「ミックス」や「ダブル」に言い換えると、「マジでなんでもいい」と映奈は笑う)。出会ったころは金髪だったが、この一年ぐらいはピンクに髪を染めている。どんな髪の色をしていてもやりすぎにならず、枝のように細い体に露出が多くド派手な柄の服を着ていても、さまになってしまうのが映奈だった。モデルのような見た目の若き経営者を面白がって、あちこちのメディアに取り上げられることも多く、二十代半ばで立ち上げたフェムテックの会社「everyday」は好調のようだ。
個性的な二人とくらべると、日本橋の繊維メーカーの営業事務職に就いている自分はなんと平凡で堅実なんだろうと思うが、そんな自分をムニは嫌いではない。好きな言葉は「安定」「合理的」「太鼓判」。唯一無二、遮二無二の「ムニ」と名づけた両親の意になど沿ってたまるかと思っているようなところがある。
「だからなんべん言ったらわかるの。理学療法士と出会ったのはコロナ前だよ。それにつきあってもない。二回デートしただけだって」それぞれのグラスに氷と水を注いでやりながらムニは説明する。これまでにムニがアプリで知り合ってデートした男は両手じゃ足りないほどの数にのぼるが、なぜか二人は理学療法士のことばかり持ち出すのだった。堅実で合理的なものを好むムニの結婚相手にうってつけの職業だから強く記憶に残っているのか、あるいは単に「理学療法士」と言いたいだけなのかもしれない。
「あれ、やり逃げされたとか言ってたやつだっけ?」と言う桐子に、「やり逃げじゃなくてラブアフェアだから!」即座に映奈が反応する。大人同士楽しんだのだから「やり逃げ」なんて一方だけ責めるような言い方はおかしいというのが、これまであちこちでワンナイトラブをくりかえしてきた映奈の方便だ。
イラスト/松下さちこ 再構成/Bravoworks.Inc