市ヶ谷に行くと呼吸が浅くなる。誰かに見られていやしないかと、背後がやけに気になる。一歩一歩足を進めながら、あの恥ずかしい日々のことで頭がパンク寸前になる。市ヶ谷駅は山手線円内のほぼ真ん中にあり、JRと地下鉄が通っている。いずれの出口からも神田川が近く、真緑に濁った大きな川が、いつも退屈そうに滞留している。隣接している大きな釣り堀は、都内では比較的有名なスポットだ。
大学を卒業してから、約五年間。その釣り堀の近くにある会社で働いていた。大企業であり、知名度もあった。しかし、業務内容が自分に合わなかった。どんな小さな仕事でもミスを犯し、完璧にやり遂げられた仕事など、おそらく一つもなかった。たとえば、全従業員にチラシを配る仕事があったとする。自分の担当する従業員は二千人だとして、ひとりひとりに手渡していたら何日かかるかわからない。そこで、各部署の上司を通じて渡してもらう。部署ごとにチラシをまとめてから渡しにいけば、すぐに終わる仕事である。
しかし、それがなぜかできない。各部署の人員数を数えるだけで、本当にその数で合っているのか不安に思ってしまい、途方に暮れてしまう。チラシを数えて束ねていく段階でも、過不足を心配して、なかなか前に進まない。結果的に、配布期間を大幅に過ぎてからようやく、従業員の手元にチラシが届く。意味をなくしたチラシが、フロア中に散らばっている。自分は、チラシ配りすらも務まらない人間なのだ。その事実が重たいヘドロのようにのし掛かって、行動の思い切りを悪くする。さらにミスは増え、上司や先輩、後輩に尻拭いしてもらった日は、よくロッカールームで泣いていた。そのうち、自分の中で市ヶ谷駅周辺は、黒歴史の集積場のような場所に変わってしまった。転職し、物書きになってからも、率先して近寄ることはなくなった。もう一生、あの土地を気軽に訪れることはできないだろう。そう思うと、故郷を喪失したようなもの寂しさが胸の中をすり抜けた。それはそれで仕方なし、今が楽しければいいじゃないかと、開き直ることもできた。退職したのは八年も前の話なのだから、と。しかし、人生とは不思議なもので、ここにきて、八年前の日々を払拭するチャンスが訪れた。
つい先月のことである。「退職者インタビューに、出演してくれない?」突然届いたLINEだった。送り主は当時の同期であり、内定者時代からの友人である。「お前に取材した記事を、社内向けの広報誌に掲載したいのよ」もちろん、私の第一声は「俺でいいの?」である。「こんなダメ会社員だった俺が?」しかし友人は楽しそうに答えた。「うちの会社から小説家なんてキャリア、なかなかないからさ。良かったら出演してよ。てか、会社の許可はもう取っちゃったよ」避けてきた市ヶ谷に、こんな形で招かれる日が来るなんて。一瞬、何かの罠かと疑ったが、覚悟を決め、飛び込むことにした。久しぶりに、ジャケットに袖を通す。当然、会社に向かうのは退職以来である。オフィスへ向かう途中、ずっと変な汗をかいていて、やはり背後が気になった。迷惑をかけた人たちに会ったら、なんて言えばいいだろう?しかし、入場ゲートを潜って、元同期の顔を見た途端、急に母校を懐かしむような感覚が訪れた。ああ、本当に自分は、ここで働いていたのだ。「緊張してるでしょ」「そりゃそうだよ。謝りたい人でいっぱいだよ」笑ってそう告げながら、考えていた。もしかすると、市ヶ谷駅にまた気軽に遊びに来られる日が、いつか来るかもしれないと。あなたの黒歴史エリアはどこですか?
この記事を書いたのは…カツセマサヒコ
1986年、東京都生まれ。デビュー小説『明け方の若者たち』(幻冬舎)が大ヒットを記録し、2021年12月に映画化。二作目となる小説『夜行秘密』(双葉社)も発売中。
イラスト/あおのこ 再構成/Bravoworks.Inc
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